「毒親」からの恵み

 Netで養老孟司氏が「答えが出なくても考え続ける。これは、一朝一夕で身に付いたものではなく、子どもの頃からそうだった」という主旨のことを書いて(語って)おられるのを読んだ。
 同感 ! と、私は強く頷いた。私も、気がついたら、常に何かしら考えて(思いを巡らせて)いる子どもであり、人間になっていたと、自覚しているからである。

 毒親たちへの思いの「落とし所」についても、あれこれチクチク考え続けた結果、不明瞭ながらも見出したような気がする。「両(毒)親も人間。長所もあれば短所もある。得手不得手だってあっただろう。勿論、喜怒哀楽も。劣等感を抱えていたかもしれない。」と、このヒトたちがこういうヒトたちであるのを、ただそのまま受け止める、というのがそれである。
 そこまで考えたら、彼らから与えられたのは、毒だけでなかったのでは、とも思えて来た。
 それは、強いて言えば「恵み」。

 いの一番で浮かぶのは「自分の頭で考る習慣」だ。
 彼らに何かを尋ねると必ず、調べてみよ、自分の頭で考えてみよと、言われていたような気がする。お陰で、分からないことはまず調べたり、自分なりに思考を巡らせたりする習性が付いた、と思う。
 なので、ここ3年余りの状況においても、行動制限がかかろうがかかるまいが、マスク着用が奨励されようがされまいが、自己責任、自己判断、自己規制、自粛、自重、自戒、と、自分で自分に課し、何とか生き延びて来た気でいる。「おひとり様」なればこそ、貫けたことであるとは思っているが。
 もう一つだけ挙げてみる。それは「何ごとにも過剰な期待、勝手な期待をしない人間になった、なってしまった」である。毒親たちとのやり取りの中で、無意識の内に何かを期待し、それがそうはならなかった結果、なのだろうけれど。変に期待をしなければ「信じていたのに裏切られた」とかの嫌な思い、悲しい思いをしなくて済むものね。 
 これは、失望落胆を回避する、自己防衛のようなものか。自分の身(心)は自分で護るしかないと、痛感してるからか。

 ただし、物ごとは結局、表裏一体。長所は短所に通じ、短所は長所に通ずる。
 何でも自分で、との思いが強すぎて、他人(ひと)に任せたり、他人(ひと)を頼ったりするのが苦手だ。手伝ってとか、助けてとか言えない。ましてや、これ以上は無理、出来ないなんて、とてもとても。とっくに、限界を超え、破綻していたとしても、だ。
 悲惨、の一語に尽きる。

 相手に期待しないが故に、相手のさまざまな力を、ディスカウントしがちになる。他人(ひと)を軽視し、バカにし、嘲り、罵る心の闇が、ポッカリ、口をあけているのを感じる。

 これはこれで、困ったものだ。

 仕方がないのか。

 毒親から与えられたもの、自分の心の闇について、答えはすぐに出ず、正解だってあるのか無いのか、皆目見当も付かないが、生きている間、私はきっと、考え続けてしまう。何かにつけて、思いを馳せてしまうに違いない。今の時代、それはタイパもコスパも悪いやり方、行動なのだろうけれど。「○○の考え、休むに似たり」このことばも知っているけれど。

 これも人生、これが “私の” 人生、なのかもしれない。

 こんな人生があったって、いいよね。
 

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