やっぱり「一年単位」か

 末期がんを宣告された夫が目の前で息を引き取って逝った瞬間、私は「自分も後は死ぬだけ」と思った。以後、その思いを携えたまま暮らしている。が、何度も書いている通り、終活、身辺整理の進み具合は、何とも遅い。
 後は死ぬだけとの思いと、今はまだ死ねない、死にたくない、こうした思いが常にせめぎ合っている。子どももおらず、親戚付き合いもせず、亡夫と二人、肩を寄せ合って暮らして来た結果、正真正銘の「おひとり様」となった。後悔は無い。当然の帰結。
 そんな身の上だから、終活は必至。そういうことも思いながら過ごしていたら、毒親(男)を遠距離介護し、その死後事務まで遂行する羽目に陥った。彼は最後まで他人(ヒト)任せ。自分からは何も言わず、何もせず「後はヨロシク」とばかりに死んで行った。そこからも私は、実に多くを学んだ。まさに「千にひとつの無駄も無い」である。

 いずれ迎える「自分の死」を見据え、向き合い、備えるのは、なんと難しいことか。と、これも何遍書いて来ただろう。

 孤独死したり、死には至らないまでも、病に倒れたり、事故に遭ったりしたら、目も当てられない。それらに備え、やり遂げるしかないのだ。
 毎度のことながら、こんなふうにウジウジ、クヨクヨ、チクチク考え、迷い、悩み、浮かんだのは、結局は「一年単位で取り込む」だ。これぞ、Simple is best. (かな?)

 亡夫の末期がんが発覚した時、余命宣告はされなかった。彼は9ヶ月余り生きることが出来た。最後の1ヶ月弱は病院のベッドの上のヒト、退院は「死亡退院」になってしまったけれど。だから??私の「後は死ぬだけ」と思う人生も「一年単位」で考えてみたくなった。勿論、その1年を生きて暮らせるか、分かりはしない。絶対死なずにいる保証はどこにも無い。かと言って、明日死ぬかもと考えてしまったら、私はますます、何も出来なくなる。故に、ともかく生きている今、あと一年と思いながら、少しずつでもやっていくしかないのだ。それこそ、チマチマ、チクチクと。

 こんなことを考えながら「春に三日の晴れ無し」の不安定な気候の中を過ごしていたら、めちゃくちゃ体調を崩した。まるで幼少期に繰り返していた、自家中毒そっくりに。ほぼほぼ毎年恒例、春〜初夏、或いは初夏〜入梅にかけて、そうなってしまう。
 自律神経乱れまくり、を感じ出した時点で自重すれば、免れるのかもしれないが、その段階ではもう、それすら出来なくなっている。不規則な生活、カフェイン、刺激物、小麦粉製品、消化の悪いものなどを摂り過ぎ、ある日突然、ドッと崩れる。その苦しさの最中(さなか)、それまでの不摂生に気付く。ストレスが少なからずあったことに、思い当たる。今年もキターー!やってまった!! 
 一年前と比較し、回復力が落ちたようで、医者にかかって何とか落ち着いた。入院には至らず、心底ホッとしている。何の備えも出来ていないから。全くもってトホホな自分。来年は、こうなってもビクともせずにいたいものだ。

 そのためにも「一年単位」このスタンスが必要か……。
 
 

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