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昭和61年衆参同日選挙中盤

 野中広務選挙事務所の京都市内に設置されている本部いた私たちは、候補者である野中広務先生を京都北部地域に送り出して、前半の遅れを取り戻すために、日程などを再度協議することが続いた。

 話は逸れるが、選挙区である京都北部地域は、日本海に面しており、日本三景の一つである天の橋立や岸壁の母の地、軍港であった舞鶴、そして天然記念物の鳴き砂がある琴引き浜など風光明媚な観光地もあり、また、丹後ちりめんの産地で日本有数の織物の盛んな地域でもあった。
 その地域に野中広務が入るというと支持者は、熱くなり、選挙車の取り合いや少しでも野中先生を自分たちの地域に長く居させようと時間配分で
地域同士が揉めたりする私たちの陣営にとっては
ありがたい地域であった。また、こちらでの個人演説会の入りは、町どうしが張り合うために、最低1会場、600人、多いところで1500人から1800人ぐらいの観客が詰めかける盛り上がりぶりである。また、町によっては、その町の有権者の6割ぐらいが個人演説会にこられている町もあった。こちらに入ると野中先生も手ごたえを感じて終始機嫌の良い状態でいた。
 また、北部地域にはいる手前で必ず野中先生の地盤を通過する。その地盤を少し説明すると野中先生の地盤は、京都府の船井郡、北桑田郡(現南丹市)でもうひとりの自民党の候補者谷垣禎一先生の地盤は、京都府福知山市及び天田郡、加佐郡で陣営同士の紳士協定が結ばれており、お互いの地盤には、選挙期間中は入らないという取り決めがあった。しかし、野中先生の地盤に比べると谷垣禎一先生の地盤の方が圧倒的に人口が多く、その分を巻き返すためにも、保守層の多い京都北部地域は、何としても票固めをしっかりとしておかないとならない重要な地域であった。

 一方、京都市内の選挙事務所では、今後の行程をどうして行くかということもさることながら、毎回そうなのであるが、陣営の中に、お手伝いと
称して敵陣の人がわからないようにして、入り込んでくる。特にこの選挙では、選挙日程は、他の陣営にだだ漏れなのではないか、というぐらい選挙車が行った後を上書きされていた。それを取り戻すために、再度こちらが上書きしないといけない。北部地域も間違いなく上書きされるので、後半に再度、野中先生を北部地域に入れる日程も極秘に組まれた。選挙車の行程は少しぐらい漏れても表の動きなので取り返しはいくらでもつくけれど、潜伏して動く企業、団体対策だけは、どのように動いているのか漏れると致命傷になるので、この企業、団体対策の部屋だけは、出入りも厳重にされ、簡単に、私たち秘書でも出入りはできないほど厳しかった。
また、同時にこの中盤でピークを迎えるのが、選挙ハガキの発送である。14、5万票を取らないと
いけない選挙で、公職選挙法で選挙ハガキが出せる法定枚数が限られているので、選挙ハガキの宛名のダブりチェックをするカルタ取りという作業を20人ぐらいでやる。これは、大変地道な作業で何日間も発送するまでにかかる。このカルタ取りをしても法定枚数をはるかに上回る枚数のハガキが集まっているので、どこの地域に集中してハガキを出すかの戦略も協議された。
 また、選挙ビラも法定枚数が決まっており、公職選挙法で選挙車や個人演説会でしか配布することが出来ず、あとは新聞折り込みしか出来ない。いつ頃、何新聞のどこの地域に折り込みするのかも協議された。これらを中心に戦略を考えていたのが、昨年まで参議院議員をされていた二之湯智さん(野中広務後援会連合会事務局長)と第一秘書であった。
 ようやく今後の選挙期間中の戦略が出来上がったところで京都北部入りをしていた野中先生の一団が戻ってきて、京都市内を回るようになると
途端に野中先生の機嫌が悪くなった。あれだけ北部地域で手ごたえを感じたのに、京都市内では、無関心のような感じで手ごたえを感じないし、反応も良くない。個人演説会も100人前後の動員数の会場ばかりで途端に盛り上がりにかけた。
選挙期間も折り返し時点に差し掛かり、これから後半戦を迎えていく。(続く)

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