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国会議員の秘書⑩(地元)

 現在の京都府は、道路事情も相当良くなってきている。近畿自動車道、京都縦貫自動車道、京奈和自動車道、第二外環状道路が開通し、また、
新名神高速道路も着工中である。河川も私が秘書になりたての頃より水害は少なくなったし、地下鉄も東西線などが出来て便利になった。京都に帰ると丹後地域に行くのに3時間半ぐらいかかっていたのが、1時間半あれば行ける。以前から比べると想像出来なかったことである。

 私が野中事務所に入った頃、京都府の管内図というのを入手してもらい計画されている道路や整備する地域などが点線や斜線で地図上に色分けして計画されているものを何回も眺めながら機関紙の「自由新報」号外版野中広務特集に将来京都府は、このように変わるという記事を書いりしていた。

当時、野中先生は、衆議院建設常任委員会の理事をされていて、空き時間が出来ると建設省に訪問して道路局や河川局、都市局などの各課に行って担当者と世間話をしながら京都の状況などをさりげなく話されていた。また、京都に戻ってきている時も時間が出来ると「ちょっと京都府庁に、行こか。」と言われて私は、同行してよく行った。ふらっと近くまで来たふりをして担当者の横の空いている椅子などに座って世間話をされる。そうして、役所の方と人間関係を築いていかれた。
 夏のお盆前だったと思うが、建設省の道路局の企画官や事業調整官、専門官という方が20人ぐらいの一行で、京都府の道路事情について視察にこられた。また、別の日には、前の年に水害があった京都府の南部にある氾濫した古川の視察に河川局の企画官や事業調整官、専門官が同じように来てもらった。そうして現地を視察した後、食事を事務所が料亭でセットして、京都府の幹部と担当者に同席してもらい懇談会をする。もちろん、京都らしく舞妓さんや芸妓さんも呼んで見てもらう。この頃は、官官接待も問題などになることなく全国から数えきれないぐらいの要望がきている建設省の担当者の方に如何に地元事情を知ってもらい国の予算を要望通りに、付けてもらうか。ということも国会議員の重要な仕事であり、秘書たちの活躍のしどころでもあった。
京都での視察の行程としては、現地視察、どこかの会議室を借りて地元自治体や京都府からの事情説明と要望、ホテルにチェックイン、そして料亭で懇談会、二次会は、祇園のクラブ、そしてホテルで宿泊、2日目は亀岡まで行き、そちらから保津川下りをしてもらい嵐山で昼食をとってもらうという内容のものだった。私は、送り迎えの送迎のための運転とお土産などの手配担当だったので料亭の中の様子などはわからないが、建設省の方には、この行程に相当喜んでもらえたと感触は私にも伝わっていた。料亭の手配やホテルの手配は先輩秘書が担当していた。
これらの詳細な行程のチェックや視察では何処で何をするか、また、料亭の料理の内容や芸妓さんは、誰が来るのか、お土産は何にするかなど、細部に至るまで野中先生のチェックが入った。私は、経験がなかったのでこの時、正直を言うと「野中先生は細かいな」と心の中で思ったが、徹底してチェックをされていた。後になってわかるのだが、建設省に予算を京都に少しでも多く付けてもらうのに、地元事情を印象づけるために、必死だったのである。また、直接予算を立案する担当者の事業調整官や専門官を視察してもらうように呼ばれていたと言うのも「なるほど」と思うのだが、また、その方たちは、何年後かには、建設省の幹部になっていった方ばかりだった。そして、この視察の数ヶ月後に、一行で来られていたひとりが京都市の助役に就任されたのを見て「◯◯官って肩書きの人は市長の次に自治体では幹部なんだ」と驚いたこともあった。このようにされる野中先生の人間関係の築き方も学ばせてもらった。
この頃よく野中先生が「役人を事務所に呼び付けるな!自分が役所に訪ねて行って『教えてください』と言ってお願いして教えてもらえ」とよく言われていた。

 この視察とは別に、当時自民党の幹事長をされていた竹下登先生が島根県の自分の選挙区に戻られるついでに野中先生が隣の選挙区から選出されている兵庫県の谷洋一先生と連携をして、竹下先生を島根県から鳥取を経由して兵庫県の谷洋一先生の地元に入り、そちらを視察してから丹後地域に車で入ってもらう計画をたてられた。そこには、如何に京都府や兵庫県の北部が取り残されており道路も整備されていないかを竹下先生に体験してもらうために、車で島根から来てもらうように谷先生と打ち合わせして仕組んだようである。竹下先生もこの時の車の移動は、相当辛かったのではと思うが、丹後の各自治体の首長や議員が、懇談用にセットされた会議室で竹下先生を囲んで地元の事情を話をして要望をした。そのようなことがあってから近畿自動車道の延長の着工のスピードが早くなったように思う。
これらも知事をはじめ京都府庁の皆さんや各自治体の昼夜を問わず弛まぬ働きと地元対策などがあり、日々京都のために、企画立案から中央官庁に対する粘り強い働きかけや交渉があってこそのものである。京都府や地元自治体が連携してこのような一つ一つの積み重ねで今の京都の高規格道路や河川の整備に繋がったと当時を振り返って私は思う。また、この頃は全てにおいて我が国もおおらかな時代であった。

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