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国会議員の秘書12(地元)

 野中広務事務所に入って1年半が経過した。この時期は、事務所が企画して比叡山の根本中堂の側にある研修所で1泊2日で開催する40代までの後援会の青年200名ぐらいを対象にした後援会連合会青年研修会や60代以上の方を対象にした1000人規模のゲートボール大会を2箇所で開催するなどしていた。それもこれもこういうイベントは全てが、後援会の組織固めのための催しだった。これとは別に、各府議会議員や市議会議員も自分たちの後援会で旅行会や観劇会、芋掘り大会などを盛んに開催されていた。これらの案内が事務所にくると集合場所に、野中先生が顔を出して挨拶をし、その地域を担当している秘書が、この催しに同行していった。
私は、平日は、後援会連合会が開催するイベントの準備と事務所の日常業務。また、金曜の夕方に野中先生が東京から戻ってくるので、その迎えと金、土、日と随行をして月曜日に東京に行かれるので新幹線のチケットの手配など、私の休む日などは、全くなかったが、自分は、野中広務の秘書であるというプライドだけでこのように、勤められていたような気がする。また、給与は安かったが、貰ったお金を使う時間もなかったので相当貯まった。少し給与の話をすると当時は、バブル期に差し掛かったところで株価も右肩上がりになっており、私の同級生たちは、証券会社や銀行などに就職した人が多かった。彼らの給与からすると私は、三分の一ぐらいだったと思う。
国会議員の事務所は、派手に見えるが、案外給与などは安いし、下の方の秘書は、実家からの通いでないと生活は厳しい。勤務時間も長く、有給休暇などの制度もなく、今から思うと完全に労働基準法違反であるが、野中先生の人を惹きつける魅力と「自分は、将来、野中先生のようになるんだ」という思いだけでやっていけていた。
しかし、休みがないというか、ゆっくり寝ることが出来ないというのは、20代ではあったが、身体的にも辛いものがあった。私には、決まった仕事といえば、「自由新報」という機関誌の作成、政治資金収支報告書の作成、また、団体などの総会や創立記念のパンフレットに来賓として掲載される挨拶の原稿などを作っていた。私のメインの仕事は、事務所の雑用一般で、その雑用の合間にこれらの仕事をしていたのである。
野中先生は、私が休みがないのを気にしてもらっており、事務所の所長に、「山田君を休ませてやれよ。」と言ってもらえるのであるが、所長は、「先生がいんときは、これは休んでいるのと一緒ですわ。」と言って取り付くしまもなかった。
確かに、この頃から「どうすればこの状況から逃れられるのだろう。」ということを考えるようになったのと「東京に転勤になれば、日曜日は休める」ということが頭に過ぎっていた。
地元での活動は、後援会を固めるためと支持者を増やすために次々とイベントというか、国政報告会や旅行会などをしていく。また、毎日のように東京で入手した補助金や法改正などの資料が、FAXで送られてくると、その資料と同じようにプリントをしてその資料に載っている制度に関係する団体や企業に、送付する。団体と言ってもその団体の本部事務局などに送るのではなく、その団体の会員1人1人に、送付するので、数百部を作成して封筒に詰めて郵便切手を貼って送付する。
これらの作業を手が空いている時にする。毎日、毎日このような業務が続いた。
京都事務所では、先輩秘書で1番歳が近い秘書と私では、九つ歳が離れたいた。だから自分に振られる仕事を手伝ってもらうのもなかなか言いづらい。毎日このような仕事をしていると「自分は、これでいいのか。」と思うようになっていた。
先の見えない日々が続いた。

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