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新 青春の絆(長編サンプル)

【巻頭言】

「もしかぶれがいのしない空気で、知りばえのしない人間であったらお互いに不運としてあきらめるよりしかたがない」
(夏目漱石著「三四郎」解説より)

10日間限定投稿
原作はKindle Unlimitedで読めます。

著者 翡翠(かわせみ)
「青春の絆 リニューアル」



第一章 常磐木の落葉


2時限目の授業が終わる鐘、それは午前の終了と昼飯の二つの合図を同時に告げる。

常磐木が落葉を開始する頃の5月7日のその鐘は、もう一つの役割を果たした。

山中裕の軽い八方塞の時季を破ってくれた人物と、運命的に出会う知らせでした。

彼の名前は、長谷川真一。身長185cm・体重65kgの背高ノッポの好青年です。
 色が白く、端正な顔立ちと誰の目にも映る。どう見ても育ちが良さそう。

 一方の裕は、160cm・50kgと小柄。裕の顔は小澤征爾の息子を彷彿させるが如く、しっかりとした眉根が特徴です。

後に統計学の授業で身長の標準偏差を学んだ際、長谷川先輩は上から2%以内で、裕は下から2%以内であることを知る。

2人は驚いたが、なんら人格に関係ないことを無言の内に確認をし合う。それは、一瞬のアイコンタクトで済ます。

裕は、高校と同じキャンパスにある大原大学に進学。教養学部生として、およそ1ヶ月が過ごしている。    

サクラの開花をまつ時期に高等部を卒業し、満開の時期に入学。気が付くと、5月の連休もほぼ終り。登録した授業を日課表にそって、休まず受講をしている。

裕にとって大学とは、自身へ課した登竜門です。父母は私立大学を卒業。兄は、公立法人国際総合科学大学卒業している。

常に「なにがなんでも、自分も」という気持ちを持っていた。それは、3年間の皆勤登校と成績・学生ネット委員会の活躍の評価をもって、達成する。

高等部から大原大学への進学者は意外に少ない。成績優秀者は国公立・医学部、あるいは名門私大へ進学。逆に成績の低い者は、書類調査の段階で受け入れられない。

裕の成績は上の中ぐらい。大原学園の校風が好きだったので、いっさい外部受験を考えなかった。


裕は、小田原生まれである。地元の小中学校を卒業。毎日、家から二時間かけて高等部へ通学。

志望した理由は、高校世界一の吹奏楽部でトランペットを演奏したかった。中学三年の1月、推薦入学で合格した時に、思いは叶ったと確信する。

中学の時は少人数のチームでした。素晴らしい出来合いでも、上の大会に推薦されない。「これで」と思ったのは、裕だけではない。家族も。

裕は入学後、早速吹奏楽部の練習をのぞいた。

驚いた、やっぱり世界一になるだけはあるなと感じた。16時から20時まで、わずかな休憩が一回あるだけで、ゴリゴリの練習漬けです。

 さらに、男女を問わず10kmのランニングをこなす。水泳では50メートルを浮き輪なしで泳ぐ。また、成績が落ちると退部させられる。噂ではないと知る。

裕は遠距離通学を考慮し、彼なりの強い決断で、夢にまで見た吹奏楽部の入部を諦める。

と言う訳で、中学3年生のクリスマス・コンサートでの「瞳を閉じて」のソロ演奏が、裕の正式舞台演奏の最後となる。小田原市民会館で開かれた。

当日、兄から、「このトランペット、裕にあげる。しっかり、頑張って来い」と言われた。兄からもらったトランペットは、高価なもの。N響所属の仏坂咲千生チューニングモデルでした。

兄は、わけ(私立中学受験)あって、裕と違う中学を卒業している。その三年生の時に、兄のチームは全国マーチングバンド大会(日本武道館)で金賞を受賞した。トランペットは、兄にとっても思い出深い楽器である。

「オレは、ピアノを続けるから」と、兄は気前良くプレゼントした。


吹奏楽部の入部を諦めた裕は、放送部に入部。また、その延長線上で、学生ネット実行委員会活動や自作クラスアルバムを作る。

なかなか、大人でもそう上手く気持ちを入れ替えらない。ともあれ、先の活動を通じ、今でも多くの仲間が裕にはいる。

意外に彼は、違ったキャラの人間をコーディネートする術を供えている。終生の宝と言えよう。



第二章 進学して


 ところが、大学生のなってからは一人。孤独な行動を、日々繰り返していた。

 そんな時に、長谷川真一先輩と出会う。それが、5月7日の鐘の時に他ならない。

統計学の終了と同時に長谷川先輩が裕に声をかけた。


長谷川先輩は昨年後半に体調を崩し、休みがち。今年、裕と同じ基礎教養の統計学を再受講していた。


「サークル、決まっていますか」
一学年下と承知していながらも、とても丁寧で優しく声を掛けた。

「まだです」


裕は、吹奏楽部を高等部の時点で諦めた。そして、放送部以外に挑戦したいと考えていた。

裕は自分のフィールドが探し出せず、もんもんとしていた。それが、彼なりの五月病であったにほかならない。


「ぼく、2年生の長谷川真一です。文芸サークルです」

「はい、教養学部1年の山中裕です。サークルは、決まっていません」

「お昼を一緒に食べませんか。学食で」

「僕は、お弁当ですから教室で」

「ぼくだって、そうです。いつも、学食でお弁当を食べています。大丈夫。この大学では、真面目な学生の生活をいっさい咎めることはありません」

「そうですか、ではご一緒させて下さい」

二人は、キャンパス内にある三つの食堂の中から、ウッディー調な木風館を選んだ。そこまで、プロフィールではなく統計学の難解さを話した。

二人は自販機でジンジャーエールを買った。お弁当を広げ、炭酸の音の聞こえる紙コップ入りのジンジャールで、出会いの乾杯をした。

「よろしくお願いします」と裕が。

「こちらこそ、楽しくやりましょう」と長谷川先輩が。

2人は、しばらくお弁当を頬張った。まわりは数名のグループでした。がやがやと食事をしていた。

昼のBGMは、決まってイージーリスニングである。その日は、リチャード・クレイーダーマン「ノスタルジー」。蒸し暑い陽気に、涼を注いでくれた気分になる。

「山中君。文芸に興味はありませんか」

「あまり」

「そうですか、小説や詩などを読みませんか」

「鉄道が好きですから、宮脇俊三の作品は殆ど読んでいます」

「いいね。電車・旅・時刻表・駅舎・地域文化など、広がりがあるジャンルだね。

実は、ぼくも鉄ちゃん(鉄道ファン)です。車窓から風景を眺めるのが大好きです」と長谷川先輩が感心をしたように呟いた。

さらに、「僕は音楽の作詞家になりたいことがきっかけで、文芸サークルに入りました。ですから、けっして読書家というわけではありません。
山中君も、文芸を通じて、鉄道を深めてみてはいかがでしょうか。

僕は君の真率な姿を見て、ぜひサークルに入って欲しいと感じた。もちろん、勧誘のノルマが無いわけではない。でも、そのことは抜きに、一緒にサークルをやりませんか」

「はい、お誘い ありがとうございます」裕は、長谷川先輩の澄み切った心を感じた。また、視察を抜きに文芸サークルに入ろうかと思う。

「面白そうですね。いろいろ、教えて戴けますか」

「教えるなんてとんでもない。一緒に、楽しむのです。サークルですから」

気が付くと、弁当箱は空となり紙コップの氷は融け、1㎝くらいの水だけが残っていた。偶然にも、午後からの授業も一緒である。

午後からの授業は、やはり基礎教養の日本文化論であった。二人は、合図もなしに、5号館4階にある、100人収容の中講義室へ向う。

「小久保教授が、サークルの顧問です」

「へえ」裕は、驚いた。

小久保教授のあだ名は、「プニョ」である。「私の体型は、ベルトの上のプニョです」と自己紹介したことに由来している。
ひげ面で、浅黒い。身長はそう高くなく、体型は小錦を連想してしまう。

授業が終って、2時半。長谷川先輩は、
「4時から、Cサークル棟204で活動があります。良かったら、3時半頃に木風館で待ち合わせましょう」

「はい、わかりました。ありがとうございます」と裕は返事をした。

小久保教授は、大学の推薦試験の面接官であった。裕は、何かの縁を感じた。
その面接の時に、
「君は大学で何を学びたいのですか」と聞かれた。

「はい、障害者の社会保障制度を学び、将来は公共福祉機関で働くことが目標です」と答えた。

小久保教授曰く
「それはいいね。 それは頑張って下さい。でもね、人間にとって、有史以来もっと大きな財産がある。芸術だよ。音楽や文学や絵画などだ。
今回の試験の成績もいいし、おそらくいい線に行くと思います。どうか大学では、芸術からの恩恵を楽しみながら学ぶと良い。頑張ってください」と、ポニョ教授が言った。

でかい話をする先生だなと、裕は感じた。後に知ったが、先生の専門は「柳田国男研究」で、「河童論」を掘り下げているとのことである。


日本文化論の授業が終って、しばらく時間があった。裕は、つい先日まで通っていた高等部へ足を運んだ。
全天候対応トラックを囲むように、講義棟・大体育館・科学技術センターなどがある。その様は、相変わらず綺麗に管理されていた。
何だかほっとした気分になった。また、具体的な体感をした。

大きな声で歌う混声四部合唱校歌
体育の授業で、移動の時に力いっぱい走る姿
なにごとも、名や指しで怒られる
聖書の朗読と説教
マスゲームの練習が懐かしい

そうか、これが楽しかった学園生活だったかと、ふと感づいた。
音楽・体育・なんでも、精一杯やる。これが思い出の源なのかと。


今日、長谷川先輩から誘われたのも何かの縁。おもいきってサークル活動をしようと、裕は決意した。また、おぼろげながらも、もんもんとした気分がふっきれたような。

サクラもハナミズキも青葉を蓄えている。スイセンが葉だけになった変わりに、一回り大きいショウブやカキツバタが咲かんとばかりと蕾が膨らんでいる。

裕は、長谷川先輩と約束した木風館に向う。3時20分を廻ったところでした。



第三章 落穂拾いとグランドピアノ


3時25分に木風館に着く。既に、長谷川先輩は待っていた。タバコを吸わない彼は、カバーを付けた文庫本を読んでいた。

椅子に座った彼は目立たない。立ってみるとやはり背が高い。そうか、足が長いのかと裕は思う。

本を閉じると、リュックサックにしまう。先輩のバックは、裕と同じブランドでベル製。白地に赤い鐘のマークが施されている。
シンプルで丈夫で、修理が効くというのが特徴です。好んで持つ者の趣向です。

「遅くなりました」

「いや、僕が早く着いただけです」

「先輩は、本が好きなのですね」

「まあね。でも、詩を書くための訓練の一貫ですよ」

「訓練ですか。運動部のジョギングみたいなことですか」と調子に乗って言葉を発した。裕は、一瞬焦る。

しかし、長谷川先輩は、首を45度下に向け、裕に、

「まったく同じです。いい例えだ。むしろ、辛いからうさぎ跳びというところかな」と爽やかな言葉が帰ってきた。

裕は、胸を撫で下ろした。気が付くと、サークルC棟に着いていた。

この学校のキャンパスは広い。東京ドームで言えば三十数個分、概ねディズニーシーと等しい広さと言われている。

小高い丘全体は、かつて雑木林であった。凡そ百年前、創立者がその五倍の敷地を手に入れた。

平地を住宅として、分け隔てなく、希望者に安く提供した。その資金をもって学校を創設した。

東側の南北に1kmくらい箱急電鉄が通っている。創立者は、自前で駅舎を寄贈し、各駅列車を止めてもらう努力を払った。おかげで、駅から徒歩二分でキャンバスに着く。

文化施設は、小さな茶室から大きな科学技術センター。1周600メートルの陸上競技場や各種球技場、講堂や体育館が四棟。鉄筋四F以上の講義棟が十棟以上もある。

いずれも、5メートル幅くらいの道路が整備させている。古き良き武蔵野の味わいを誰もが感じる。

ただし、どこも緩やかな坂道である。また、校舎間の移動には時間がかかる。

駅からキャンバスまでは徒歩二分で着くが、遠い校舎へは30分以上もかかる。学生泣かせであることは言うまでもない。

いずれの道路もクスノキやヒノキらが、雨やどりドームの役目を果たしている。

木風館からの移動で、今時はヤツデや、まだ咲く気配のないアジサイの目立つ小路を、十分ほど歩いて来く。

箱急電鉄が下を走る二百メートルの安政大橋を渡ってきた。

「ここが、文芸サークルのあるサークルC棟です。2Fの北から4番目がそうです。」と笑顔で案内をしてくれた。

レンガ造りの3階建てのサークル棟は3棟でした。一番西側。何だか、チェコやデンマークの建物を彷彿させる立派な建物である。

外階段で2階まで登る。もちろん鉄骨の階段ではない。
どの部屋も木製の重そうなドア。ハンドル式のドアノブには感動した。

「立派なサークル棟ですね」

「慣れると、そう思わなくなります。いつも反省しています。さぁ、どうぞ」と言って、中へ通してくれた。

裕が中に入ると大きな拍手で迎えられた。同時に、二名に向かっても拍手が送られていた。実は、今日は新入生歓迎会。

つまり、裕は三番目の新入サークル会員となった。
部長が深くお辞儀をし、

「ようこそ、文芸サークルへ」とハッキリとした声で挨拶をした。

一人の新入会員が、
「工学部の吉田肇です。宜しく、お願いします。高校生までは柔道をやっていました。二段です。S・シンを読み、文学に興味を持ちました。」といった。

いがぐり頭を裾刈りにした素朴な青年であった。

サイモン・シンといえば、「1967年、イングランド、サマーセット州生れ。
祖父母はインドからの移民。ケンブリッジ大学大学院で素粒子物理学の博士号を取得し、ジュネーブの研究センターに勤務後、英テレビ局BBCに転職。

TVドキュメンタリー『フェルマーの最終定理』(1996年)で国内外の賞を多数受賞し、1997年、同番組をもとに第1作である同名書を書き下ろす。
第2作『暗号解読』、第3作『宇宙創成』(『ビッグバン宇宙論』改題)がいずれもベストセラーとなり、科学書の分野で世界中から高い評価を得ている」と、新潮社のホームページで読んだことがある。

「芸術学部の野口信一郎です。将来、昭和ロマンを表現する映画監督になります。

 趣味は「こち亀」を読むことと、山田洋二郎の映画鑑賞です。寅さんが大好きです。」と明確な目標までを口にした。

裕は入会を決意したとはいえ、宣言をする前に自己紹介をすることになる。

「私の名前は、山中裕です。教養学部です。趣味は、鉄道研究・写真・トランペットとピアノの演奏です。四年間、頑張ります。」と吉田君と野口君の勢いにつられて大そうな挨拶をしてしまう。


部室は、約30畳。幼稚園のお遊戯会のような手造りの飾付が施されていた。正面には大きな窓。

北側の壁には、ミレーの「落穂拾い」の絵画が飾られている。そして、南側にはコンパクトなグランドピアノがあります。

漆喰の壁とコーク材の床、そして隈取は細工され木材が施されている。裕は、中世の王宮の一部屋と錯覚した気分になる。

田中部長が、
「新入会員の皆様、今日は私から2年生以上を紹介します。その後は、ささやかではありますがモック・バーガーから調達した軽食を摘みながら歓談を楽しみましょう。

その中で、互いに、自己紹介をし合って下さい。終了は
5時半、片付けをして六時解散と致します。
また、会則に従い禁酒・禁煙です」

裕には、なんら支障は無い。田中部長は、自分/4年生/3年生/2年生の順で紹介を始める。

それに先立って、上級生方から、「歓迎の歌」を歌ってもらった。このサークルでは、集会の始まりと終わりに童謡や賛美歌などを歌う。

裕も、幼稚園のころから賛美歌や聖書に触れていたので何の抵抗もなかった。

むしろ裕は、嬉しく思う。大原学園のDNAに触れた気がして。

早速、田中部長の自己紹介が始まった。
「教育学部3年、田中家の八男で田中八郎です。福沢諭吉「文明論之概略」の研究をしています」

「文学部4年生の武田哲夫さんです。ドストエフスキー「罪と罰」を研究しています。筑波大学の大学院を目指して頑張っています。

「よろしく、お願い致します。実は、語学が苦手で困っています」

「農学部4年生の蜂矢由美子さんです。中国作家「魯迅」を研究しています。「地上の道の話」をぜひお聞き下さい」

「家事をこなしてくださる異性の同居人を募集しています」

「芸術学部4年生の川口陽子さんです。彼女は、三島由紀夫をすべて読まれています」

「私は、就職先が決まりました。家業の古本屋の店員になります」

「文学部3年生の谷川俊一郎さんです。同姓の「谷川俊太郎」の詩を研究しています」

「皆さんを詩の世界にご案内します」

「教養学部2年生の長谷川真一さんです。詩を書くために草木や花や鳥の研究に励んでいます」

「紹介のとおり、今は草木や花や鳥の研究をしています。憧れは、北原白秋です。」

「芸術学部2年2回目のキムタクこと木村琢也です。シェークスピアの悲劇と喜劇の狭間を研究しています」

「木村拓哉とは間違えられたことはありません。でもよく、豚屋と呼ばれています」

「それから、もう1人。今年で3回目の大原大学(工学部・文学部・今春、芸術学部)合格を果たした島崎徹さんです。  
島崎さんは、ずっと「源氏物語」を研究しています。

実は、島崎さんは、当会に多額の寄付をして下さっております。毎度、ありがとうございます」

「65歳の島崎です。平安のスパーヒーロー『光源氏』にあこがれて50年となります」

「以上8名です」と田中部長。そして

「それでは、乾杯です。乾杯の音頭は、島崎様にお願を致します。」

「ご指名に預かり、光栄と存じます。
それでは
新入会員の皆様、入会ありがとうございます。また、諸先輩方の益々の自己研鑽とサークルの繁栄を祈念して、乾杯!」

「乾杯!」と一つの雄叫びとしてこだました。

「すまん すまん 遅れてすまん」とプニョこと小久保教授が入って来た。
なんとも人が良さそうに見える。しかし、至近距離から見たプニョは、あまり清潔感のない人に映った。

「小久保教授が見えたので、もう一回乾杯をしましょうか」

「いや、そうはいかん。築地宝寿司を呼んだ。奮発だぞ。職人1人に・種は底なし、大盤振る舞いのバイキングだ。教え子に協力をしてもらった」

「おめでとうございます。記念すべき90回目(創立と同時)の新入生歓迎会だね。僕も、お世話になった文芸サークル。さぁ、寿司食いねえ」

後で聞いたところによると、親方は本学卒業の際、サークルだけではなく、小久保教授に相当お世話になったとのこと。 

元来、彼は気風が良い。昨年、天職と思えるような〝すし屋〟を開業した。小久保教授は、三日と空けず仲間を数名引き連れて通っている。

それへのお礼として、後輩たちに寿司を御馳走してくれる運びとなった。ちなみに、彼は80回生で、文学部卒の33歳です。

寿司が届いたことで、皆は大喜び。いきおい、小久保教授の存在を忘れているようだ。それを察した小久保教授は、気分を害しているわけではない。

とにかく、かつてない盛り上がりに眼を細め、もう一段階腹を突出して満足の笑顔であった。裕は、大好物の穴子の寿司をたて続けに頬張った。

食べ物とは、面白いもので、場の緊張を和らげる。また、各々の趣向そのものを示す。歓談には格好の存在である。

先輩後輩・男女を問わず、「これ、美味しいね」と口にしながら、心の距離を引き寄せ合った。

田中部長は、
「皆さん、モック・バーガーもお忘れなく」とさらっと告げた。皆は、はっとした。しかし、築地宝寿司は「てんや、わんや」の大忙しです。

会場の食べ物は、5時半を待たずに空となった。裕も皆と同じく腹いっぱいになるまで食べた。

しかし、入室と同様に、絵画とグランドピアノのこと
が気になっていた。

「宴もたけなわでありますが、ここで小久保教授からお言葉を頂戴したいと思います。小久保教授、お願い致します」

「はい。いつもは、新入生のためにグランドピアノの話をするが、今回はミレーの「落穂拾い」について話します」

後に知ったが、三年前に小久保教授が、教授に昇格した際に、このサークルにピアノを寄贈した。音楽の調べを、文芸に生かしてもらいたいと考えたからである。

ピアノは、世界に誇るYAMAYA製の一番小さいものではあるが、グランドピアノであった。先生の話は、手元のメモ書きを見ながら続いた。

「ビッグローブ百科事典によれば『日本の整然と株の植わった稲田と違い、欧州の麦畑は同じミレーの『種まく人』にみるように畑に種をばら撒き、育った株を柄の長い鎌で立ったまま薙ぐように刈り倒す。

これをフォークで集めて脱穀するのだが、当然のことながら集めきれなかった落穂が多数地面に残される。

当時、旧約聖書の『レビ記』に定められた律法に従い、麦の落穂拾いは、農村社会において自らの労働で十分な収穫を得ることのできない寡婦や貧農などが命をつなぐための権利として認められた慣行で、畑の持ち主が落穂を残さず回収することは戒められていた。

落穂拾いの光景はミレーの故郷で土地の痩せた北ノルマンディー地方では見られず、肥沃なシャイイ地方に移住した後に体験した感銘を描いたものであると考えられている。
また、同時期には同じく旧約聖書『ツル記』の一場面に由来する『刈り入れ人たちの休息(ルツとボアズ)』を手がけており、農村社会での助け合いを描いている』と記されている。

しかし、それに止まらないと私は聞いた。高校二年生の倫理の授業の時のこと。寡婦や貧農の方たちは、残りすべてを拾わない。なぜなら、鳥や昆虫の食物を意図的に残したそうだ。

鳥や昆虫は、残った穀物のカスを食べにきて、その際に糞をする。そして、その糞が大地に栄養を与え、翌年にまた豊作をもたらすことを知っていたからだ。

うん、へりくつ抜きの有機農法の基本メカニズムだ。この話が嘘か本当か解らない。でも、多いに合点が行く話しだ。諸君、欲張るな。

仏教にも、布施の発想がある。松長有慶師(高野山真言宗総本山金剛峰寺・第四一二世座主、高野山真言宗管長)著「大宇宙に生きる」をぜひ読んで下さい。
余った物を独り占めするよりも、周りと分け、全体が豊かになる幸せのあり方を理解して欲しい。

ですから、昨年9月に、この絵をサークル室に私が飾りました。今年の文芸サークルは、自己研鑽から人に喜びを施せ
る活動を目差して下さい。以上」と言って、満足げに独特な首を傾げた姿のまま、サークル室を出て行く。


6時までに、寿司屋の片付けと概ねの清掃を終えた。皆で、終わりの歌を歌った。曲は、ドボルザーク「新世界より 唱歌『帰路』」。裕ら一年生も。

その後で、築地宝寿司の親方に何度もお礼を言った。親方は照れくさそうに、
「年に1回くらいは、『寿司食いねえパーティー』を開いて下さい。また、くるよ」といいながら、道具をもってサークル室を後にした。

田中部長が
「今年も、週2回、午後4時から(月・木)の活動と第3土曜日の午後1時から活動ミーティングを行います。
月曜日は個人研究の進捗発表、木曜日は輪読会です。

また、5月21日(土)は、今年度の活動計画を立てます。本日は、ご苦労様でした」と言って、事実上の閉会宣言をした。

一同は、わいわいガヤガヤと騒ぎながら駅に向かう。裕にとって今日の活動は、幼馴染とキャンプに行って来たような気分でした。

しかし、先輩たちの教養に驚いてもいた。1年後の挨拶が貧弱であったらどうしようかと、裕は焦りを感じていた。

大原学園前で、登り組みと下り組みがわかれた。裕は、下り組みの仲間と各駅停車に乗った。

次の駅で、18時45分発、特別急行ロマンチック号・箱根行きに乗り換えた。


小田原には、7時半前に着いた。あらかじめ母にメールで迎えを依頼していた。内容は、以下のとおりであった。

「文芸サークルの進入生歓迎会で遅くなった。ロマンチック号で返るから、西口に7時半に迎えをお願いします。禁酒・禁煙パーティーにつき、心配なし。」

迎えには、今年信託銀行に就職したばかりの兄であった。兄曰く、
「おまえのサークルデビューは、地味だな!」




第四章 新世界へ


あっという間に、月曜日がやって来た。昨晩、布団に入ったのは9時半、10時には寝ていた。
結局、取組むべき著者を決めることをできずに、月曜日
の朝を迎える。
5時起床、6時半に母に駅まで送ってもらう1時限目対応シフトの日です。

急行登りの箱急電鉄の中で、今日のサークル繕い作戦を
模索した。

あまり大上段に構えると辛くなるし、節操の無いものも恥ずかしい。

かねてから半ば強引に父に薦められていた直木賞・周五郎賞に「邂逅の森」で同時受賞した「熊谷達也」を研究テーマにすることにした。

「相克の森」「氷結の森」、「モビー・ドール」や「漂泊の牙」を読んでいた。とりあえずこれでと思った時には、一つ手前の新町田駅に着いていた。


午後からの授業のない裕は正門を入り、すぐ右脇にあるアザリア公園で、サークルまでの時間を過ごした。「アザリア」とは、ツツジです。

世界一美しいとうマスターズ・ゴルフ・トーナメントの開催される13番ホールも、通称アザリアと呼ばれている。

いずれも、大きな池とつつじが美しい。今日の大原大池もツツジやサツキ、そしてシャクナゲが、綺麗に咲いている。池の中州には、大きな樅の木が植わっています。

クリスマスになると、素晴らしいイルミネーションが飾られる。裕は、写真でしか見たことがない。

池をはさんだ反対側に太郎庵という茶室がある。その脇のベンチに座り、熊谷達也著「箕作り弥平」を読んでいた。

広々とした芝生の公園である。池の噴水に洗礼を浴びた南からの柔らかい風は爽やかであった。気がつくと、2時間以上も読書に耽っていた。

気候の心地良さが手伝って、裕はいっきに、「箕作り弥平」を読み上げた。

サークル室に向かった。サークル室に行くには、2つの道がある。垂木で土留めを拵えた急坂の細い階段を上る道と緩やかな坂の中央通りを登る2つの道です。

日頃なら中央通りを使うが、今日に限っては、垂木の土留めを拵えた急坂の細い階段を利用した。運動量はいずれ変わらないとしても、自然の中を歩きたいと、なんとなく思う。

この道は、長谷川先輩が、草木のあり方を学ぶコースと後に知る。昨晩、雨が降ったので、土留めの垂木に足が乗ると滑った。

約100段をのぼり礼拝堂の脇を通る。サークル棟に到着した。3時半過ぎ。

サークル3棟を出入りする人は数え切れない。せわしくなく出入りする人、厳かに出入りする人、物思いに耽るように出入りする人。その姿は、何とおりある。数え切れないと感じた。裕は、緊張していた。

そこへ、長谷川先輩が現れた。
「やあ、山中君は正会員だから胸を張ってサークル室に入って下さいね。

それから、月曜日の個人発表は司会者がなく、自己発表です。そして、簡単なコメントを本人が加える程度です。気楽ですよ」と言われた。

そして、「読書ブログに投稿する」と付け加えられた。裕の緊張は、幾分か解れた。

ほっとした気分で、サークル室のドアノブを空ける。きちんとした理由で搬入された「落穂拾い」とグランドピアノがあり、なぜか安堵した。


まもなく、部員は集る。木村先輩以外は皆勤参加である。一方、木村先輩は参加回数が少ないが、遅刻/早退/中抜けが多いため出入りする回数は一番多い。

定刻の午後4時になると同時に、一同は起立。開始の歌を歌う。開始・終了の歌は、当日の発表者が歌詞をコピーして持ってくる習慣となっている。

今日の開始の歌は、ウルフルズ「明日があるさ」である。

歌が終了すると同時に、本日の発表者:武田哲夫先輩が、研究レポートを発表した。

『前回の歓迎会の時に、ドストエフスキー著「罪と罰」を研究していると紹介された武田哲夫です。

今日は、ドストエフスキー著「白痴」についての紹介文(新潮文庫裏表紙より)と私の書評を発表します。

「上巻
スイスの精神療養所で成人したムイシュキン公爵は、ロシアの現実について何も知識も持たず故郷に帰ってくる。
純心で無垢な心を持った公爵は、すべての人から愛され、彼の魂をゆさぶるが、ロシア的因習のなかにある人々は、そのためにかえって混乱し騒動の渦を巻き起こす。
この騒動は、侮辱の中にあっても誇りを失わない女性ナスターシャをめぐってさらに深まっていく。

下巻
エゴイズムと粗暴さの権化である商人ロゴージン、誇り高い将軍家アグラーヤ。
彼らは、ムイシュキン公爵とナスターシャとの仲に翻弄され、ついにロゴージンは、二人の結婚式の当日、ナスターシャを奪い去り刺し殺してしまう。...」 (新潮文庫より)

次に、私の書評を読み上げます。
とても悲しいお話でした。公爵は本当に白痴であったのでしょうか。
おりしも19世紀、科学の進歩・社会の変容・宗教のあり方は。いずれも大きな曲がり角であったことは、言うまでもない。

しかし、急変するそれら諸要素を、じっくりと人間の生活に溶かし込めたのでしょうか。あるいは、熟成させるべく器を、こしらえられることが出来たのでしょうか。

著者は当時を時代背景とし、未来の人類を憂い、この著作を書き上げたと思う。在りし日の公爵は、天から舞い降りたキリストと思えてならない。

確立した正義を信じ、行動を実践する。この様は現実社会においては、些か滑稽に他ならない。喜劇であるが、行動様式はまさにドン・キホーテさながらである。

悲劇の中の公爵、喜劇の中のドン・キホーテ、いずれも、世知に長けた者が忘れがちな、人類の思想的豊かさの欠如に、警鐘を鳴らしていると感じる。そこに、時を越えた素晴らしさの裏打ちがあるのでしょう。

この長い小説の大方は、ナスターシャ・フィルボビナの亡骸の前にした朋友ロゴージンと公爵の末期の一幕のために書かれたのであろう。

とても悲しい作品を描きつつ、人間に美しさを描くことに挑戦したドストエフスキニーに圧巻です。私は、公爵を「白痴」と思えませんでした。以上で、私の発表は終ります』


大喝采。凡そ20分の発表。裕は、あっけに取られた。

「御静聴、ありがとうございます。私は、存分に語りました。質問等がありますか。どなたか」

川口先輩が、「ハイ」と快活な言葉とともに、手を挙げた。
「うちの古本屋には、ドストエフスキーの本はあまり並びません。コミックやグラビア誌、はたまたDVDが主流です。 

文庫本で多いのは、コペル君主役の吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」(岩波文庫)と夏目漱石著「坊っちゃん」です。もっとも、日本の現代作家では、落合恵子の「スプー
ン一杯」シリーズや司馬遼太郎・松本清張・赤川二郎・森村誠一などが主流です。

海外文学では、ヘミングウェイ、アガサ・クリスティー、スティーブン・キングなどが主流です。

ドストエフスキーは、難解といわれています。しかし、発行部数は多いと聞いています。購入者が多い割に、古本屋へ売りに出されない著作と位置付けることができると思います。

そこらへの見解がございましたお聞かせ願いたいと思います」

川口先輩の質問が終わったタイミングで「遅れました」と木村先輩が入室して来る。

「ドスト・ファンから言わせて戴くと、少し生意気な議論となりますが。

 一つは、読もうと思って購入する方は多いが最後まで読みきらない。
二つ目は、途中で投げ出したものの、世界最高峰の文学をいつか読み切りたい。

この、二つの気持ちが多購買/少売却の構造を作り出していると思います」

「たしかに、僕もそうです。どうも、名前が覚え難いのとイメージとしての暗さが先行し、トライするごとに頓挫しています。」と谷川俊一郎先輩が言う。

田中部長が、場をまとめる意見をいう。
「武田さん、難解なドストを読み解くいい方法があったら、教えて下さい。」

「はい。正しいかどうかは、解りません。私の経験をお話します。
おっしゃるとおり、私も皆さんと同じ経験をしました。そこで、文章以外の言葉や観念を一切抜きに、読みだけに専念しました。

それから、人間関係を図示しました。さらに呼名(あだ名等)を括弧書きで記しました。

その後、十九世紀のロシアの理解、取り分け“モスクワ”と“サンペテルブルグ”について少し勉強しました。

後は、繰り返し読み続けました。今は、「カラマーゾフの兄弟」を読んでいます。

下地があるので、意外に早く読むことができます。日本文学の難解さで言えば、「漱石」レベルと感じています。

たまたま、「罪と罰」の書評も持ち合わせています。宜しかったら、お披露目をしますが」

サークル室内に、アンコール拍手が鳴り響いた。

「それでは...
国家・社会などを描きつつ、一青年の心の動きを描いた「罪と罰」は、すばらしいお話です。

主人公ラスコーニコフの苦悩は、一種青春の麻疹と位置づける。ただ一度、罪無き少女まで殺めてしまう事で、彼の苦悩は深まりの加速度を増してしまったのでしょう。

この巨編では、母・妹、ラズミーヒンらの友人のあり方が素敵でした。また、俗物オヤジ達や名刑事ポリフィーの存在は強烈です。あと、中年の奥方の逞しさに驚いた。

終章、「シベリア。」と始まったときには、「彼はついに...」と感じた。ところが、知人の娘ソーニャの振る舞いに彼は生きる希望が開けた。しかも、そこで筆を止めたドストエフスキーの技には、降参である。

恥ずかしいことですが、「罪と罰」がハッピーエンドとは知りませんでした」


またまた、感動の大喝采。裕は、他の一年生と同様に度肝を抜かれた。しかし、意外に周りは冷静に感動。このことの方が裕は驚いた。

気がつくと、5時半を廻っていた。陽は、秋のつるべ落としの反対の加速で延びている。
紅茶の振る舞いがあった。蜂矢先輩の気分で、その種類が変わると聞いた。今日は、オレンジ・ペコと言っていた気がした。
機嫌がよく、充実した時の紅茶らしい。このお姉さまが、今サークルのマドンナかと思った。実際のあだ名もマドンナと知る。

帰り際に、長谷川先輩にそっと聞いてみた。
「今日の武田先輩のお話は、感動を超えたものでした。皆さんも、凄いのですよね。すこし、ビビってます」

「武田先輩は、筑波大学の大学院を目指している方です。もっと深く、そして広く勉強されています。

今日、山中君が、感動をしたのはドストを知ったことです。武田先輩の凄さを知った訳ではありません。言葉がきつくて、すみません。解りやすかった武田先輩の説明に、感謝することが大切だと思います。

おそらく、一般向けに書かれたレビューだと思います」


若干、ざわざわと歓談。6時少し前に、皆が立ち上がり終わりの歌を歌う。さくら(作詞・御徒町凧、作曲・森山直太朗)でした。


夕日はいまだに、山の向こうに沈んではいない。あたりは、これから活気付いてゆく気配さえある。
陽に照り返される常盤木の若葉は、真昼のイルミネーションさながらだ。

裕は、驚きと充実を味わった。新しい世界に突入した気がしてならなかった。

皆は、サークル室を清掃し自由解散。今日は、1年生3人で、モック・バーガーに寄って帰ることにした。

第五章 「ドースルカズ結成」


大原学園前駅の改札は、線路を跨いだ陸橋の上にある。東西に昇降階段があり、東口・西口と分かれている。

全体は、地上3階建ての駅ビルとなっている。モック・バーガー学園前店は、大原学園前駅ビル東口1Fにある。階段を下りて、すぐ右手。モック・バーガー店に喫煙室はない。

3人は、ダブルチーズ・ベジタブル・モックバーガーとフルーツジュースを頼む。ポテトがついて560円。しかし、通学定期優待にて480円で済んだ。

自己紹介という言葉もなく、吉田肇が話し始める。
「僕は、岩手県花巻の生まれです。と言っても、花巻の方というのが正解で、和雅郡平和町高俵です。
高校は岩手県立花巻黒橋高校農業科。両親は第二次兼業農家の教員です。兄弟は居ません。
高校では柔道部に所属し、〝黒橋の大ちゃん〟と呼ばれて居ました。

従兄弟と、この近くでルームシェアをしています。1つ年上ですが、一浪で聖城大学法学部へ。
僕は、AO入試に柔道を持ち出し大原大学に合格したが、勉強はまるきりできない。

とにかく、サイモン・シンは凄い!
勉強が何も解らない僕に、数学を教えてくれた本の凄さに感動をしました。勉強を一から始めるつもりで読書を開始します。

また今日の、武田先輩の〝文章以外の言葉や観念を一切抜きに読み〟の言葉が心に残りました」と、明らかに標準
語を意識しながら話す。裕と野口君は、一字一句逃さず話を聞いた。

ちょっと間を置いて、野口君が口を開く。
「〝こち亀〟って知っていますか」
二人は無言で頷いた。

「僕は、両津勘吉が大好き。漫画の主人公としてはもちろん、修羅を切る大人たちよりもずっといい。おろかな行動の中に喜劇と悲劇が含まれています。

それを笑いという文化の中で昇華できた昭和時代に暖かさを感じます。
寅さんも然り。僕は、浅草生まれ浅草育ち。だから、誰よりも憧れがずっと強いのかも知れません。

駒形の泥鰌をご馳走したいね。是非、遊びに来て欲しい。
乱立するビルの合間をぬって戦後の復興を遂げた良き下町を知って欲しい。最近の話題作品〝夕日の出前蕎麦〟のような映画を撮れる監督になりたい。

それから、僕は23歳です。東陽大学経済学部を卒業と同時に大原大学に入学しました。

東陽大学では、経営学を学ぶ。実は、結果を出さなければならない厳しい社会に出たくはなかった。が、大学院入試はすべて失敗。
補欠試験で芸術学部に滑り込む。ただの意気地なしです。

でも、混迷する社会にあって、あらためてスミス・マルクス・ウェーバーを学ばなければならないと思う。
その中で、〝思い〟や〝プロセス〟を大切にすることを、映画を通じ世に知らせたいと思っている。

ちょっと、熱いでしょう。
とにかく、今は変化に対応する力。そして、ピンチをチャンスに変える力が大切な価値観。

それは、速度を判別式に掛け、その傾きに対応できるか否かの能力である。厳しくもあり、辛くもあり、難攻不落の世の中です。

僕は攻略できるのは、『ITか人間か』の答えに人間と言い切りたい」

裕は、二人の熱弁に度肝を抜かれる。しかし、それはそれ。彼らほど立派な思いはないが、自然体の自分を話すことにした。

裕は、精神的に不安定な今月上旬に、長谷川先輩と出会い、文芸サークルに入ったこと。小田原から通った大原学園高等部の3年間が楽しかったこと。鉄道や写真や音楽が趣味である話をした。

ついでに、ギャクで、「え~ぷしん」と〆た。一同は、大爆笑であった。
実は、3人の共通はドリフの大ファンであった。裕のギャクが、3人を一気にまとめ上げる。その後、中心は裕となる。

とはいえ、彼は2人の意見を常に重視した。3人へ問いかけられた返事には、時間がかかった。

必ずといってもいいほど、「どうするか」と話し合った。いつの日からか、皆からも「ドースルカズ」と呼ばれるようになる。以後、新入生という言葉が必要なくなった。

帰ろうと思ったところに、蜂矢先輩と谷川先輩がモック・バーガー店に入ってきた。

美男美女のお似合いのカップルに映ったが、単なる友達に過ぎない。彼らは、ともに研ぎ澄まされた議論を対等に交わす論客同士です。

「『地上の星』って、中島みゆきだよね」と吉田が言う。

「そうだよ。でも、あの時の話は、『地上の道』のことだよ」と野口が言った。

「なにそれ」と裕が。

「中国近代文学作家の魯迅が書いた本に『故郷』という本がある。その最後に、有名な一文がある。それを略して『地上の道』と言う。

詳しい話は、蜂矢先輩の発表時にじっくり聞きましょう。確か、次回は蜂谷先輩と聞いています」

7時半を廻ったころで、「ドースルカズ」は解散した。ようやく、外は暗くなっていた。

陽が沈んだというよりも、雨雲が原因のようである。

裕は次の新町田駅で急行にのり、居眠りをした。目が覚めると亀井温泉駅を通過するところであった。

車窓のガラスには、斜めに走る雨粒が無数にあった。小田
原駅に着いた時には、ドシャブリの雨でした。



第六章 先輩の分水嶺


定刻に皆は起立し、「線路は続くよ」を歌う。
輪読会の始まりの歌は「線路は続くよ」で、終わりの歌は「ウィー・シャル・ オーバーカム(我々は克服する)」でした。

今年の輪読の1冊目は、川端康成「古都」。川端康成は、日本最初のノーベル文学賞受賞者です。

「古都」の裏表紙には、
「捨て子ではあったが京の商家の一人娘として美しく成長した千重子は、祇園祭の夜、自分に瓜二つの村娘苗子に出会い、胸が騒いだ。

二人はふたごだった。互いにひかれあい、懐かしみあいながらも長すぎた環境から一緒に暮らすことができない...。  
古都の深い面影、移ろう景物の中に由緒ある史跡のかずかずを織り込み、流麗な筆致で描く美しい長編小説」と記されている。著作は、淡々と輪読されていた。

一歩遅れた形で参加した「ドースルカズ」は、51ページまでを予習として読書した。既に輪読された「春の花」「尼寺と格子」の章と今日の「きものの町」を読んで来た。

著作の存在が緊張感を生むのか、皆が真剣に輪読しあうから緊張感があるのか。いや違う。
そうか、文芸サークルの輪読会独特の緊張感なのかと裕が悟るやいなや、順番となっていた。

「佐田一家が見送るように立っていると、...中略...眉を描き、口紅をつけ、化粧して、王朝風の装束をつけ、祇園際の長刀鉾に乗った、真一の稚児姿であった。もちろん、その時、千重子も幼かった」
と読んだ。

裕は緊張していた。しかし、自らが著作の中に入り込み、修学旅行でしか行ったことの無い京都のイメージを思い浮かべながら、一字一句をもらさずに丁寧に読めた。
意識して、ハッキリとゆっくりと適度な大きさの声での朗読は、上級生から褒められた。

田中部長は、
「次回は「北山杉」です。いよいよ、『転』の部分に入ります。古い話であるが、各々の心に沁みる秘密は、日本人共通の美意識から派生していると感じました。

今日は、これでおしまい。今週土曜日は、月例のミーティングです。キムタク君をはじめ、全員が参加して下さい。今回のテーマは、夏合宿について」

一同は、無言のうちに起立した。そして、終わりの歌を歌う。
「ウィー・シャル・オー・バーカム(我々は克服する)」が歌い終わり自由解散となる。

「山中君」と長谷川先輩が声を掛けた。

「はい」と裕は、返事をした。

「時間があれば、相談というかお願いがあります」
裕は特に用事は無かったが、時計を見た。5時半。

「わかりました」

「じゃぁ、僕がおごるから、正栄食堂の穴子天丼でどう。穴子が好きだったよね」

正栄食堂は、駅前の小さな定食屋である。お品書きは、ない。何故か、注文すると安価(一人前580円前後)で美味しい定食が出てくる。

オヤジは180㎝有に越す大男。客がいて、調理がないと客の席に混じり話をするのが趣味。有名な話です。

顔は天狗の下駄のように長方形でデカイ。メガネを掛けて、眉毛はハの字。

言葉は普通であるが、優しく話すトーンが、敬語交じりに錯覚する。

なんとも、不思議な定食屋。また、主人の名前が正三さんで、お店が栄えることを祈念して、「正栄食堂」と名づけられたそうです。

長谷川先輩は、穴子天丼とカツカレー・カツ一枚分を頼む。

「ここのカツカレーは、美味い。カレーが美味くて、カツは揚げたて、おまけに米はササヒカリ」

「僕も、カツカレーにします」

「オヤジさん、カツカレーを2つに変更してください」

カツを揚げる油の音が聞こえ始めた。

「山中君、小田原文学館って知っていますか」と言ってネットで調べた資料を見せてくれた。

そこには、『白秋が童謡の創作をはじめたのは、大正7年。鈴木三重吉の児童雑誌「赤い鳥」に童謡の担当者として参加したことでした。小田原天神山の伝肇寺に「木兔の家」を建てたる直前のことです。

中略

白秋が日本で初めて本格的に翻訳した英国童謡〈マザー・グース〉のコーナーもあります。」という記事であった。

「はい。小田原文学館は、家から歩いて3分です」

「えぇ、そんなに近いの」

「はい。建物の中に何があるのかは知りません。庭の出入りは自由で、建物へ入ると入館料がかかる筈です。

洋館造りと純和風の二階立ての建物があります。人があまり居ないので消音器を付け、よくトランペットの練習に行きました。静かな良い所です」

「それから伝肇寺って知っていますか」

「はい。そこも歩いて5分ぐらいです」

「はい、どうぞ」と言って、カマキリみたいな女将さんがカツカレーを運んできた。
「すげ、美味そう」と裕。

「まあ、食べようぜ」

なんとも、シンプルかつスケールのでかいオヤジを彷彿させるカツカレーである。

カレーのかかったカツの端っこ頬張りながら、
「じゃあ、めだかの学校って知っていますか?」

同じく、カレーのかかったカツの端っこ頬張りながら、

「はい。小学校1年生の秋遠足で行きました。行き方次第ですが、小田原駅からバスで5分位です」

「では、お願いがあります。是非、その3箇所を盛り込んだミニ旅行を計画していただけませんか」

調子に乗った裕は、

「よろこんで」と、どこかの飲み屋チェーン店の店員風に答えた。

「では、お願いします」

カツカレーは、とにかく美味しい。いまだかつて、食べたことのご馳走。裕は白秋ミニ旅行を忘れ、一気にカツカレーを平らげた。

長谷川先輩から大役を仰せ付かったことを思い出したのは、急行で相模大学前を過ぎた頃に。

密かに、旅行会社を目指している裕には、まんざらな気分ではなかった。

駅には、母が迎えに来てくれた。迎えの車は、お父さんの生き形見のシトロエン。

その数日後に、家で煙を吐き、ディーラーに着くやいなやオーバーヒートで廃車となった。

なんでも、父は学生の頃、「僕って何」を描いた三田誠広先生の大ファンであったらしい。

中でも「やがて笛がなり、僕らの青春が終る」という作品を好んでいたとのこと。

当時、ベンツとBMWが大衆化した1980年頃にあって、その著作に登場したシトロエンに豪く興味を覚えたとか。

いつか乗りたいと、8年前に求めたと聞いている。

意外に、乗り心地は悪くはない。「猫足だ」と、わけ
の解らないことを話していた。

 お父さんは、先月十七日に、『でっかい人間になりたい』といって、奥州の山奥の小さなお寺に修行に行ったきり、未だに帰って来ていない。

勝手者であることは、間違いはない。4月から、兄が
就職で寮生活を始めたので、今は母と2人暮らしです。


家の近くにある小田原文学館を、長谷川先輩が訪れたのは翌日の金曜日であった。もちろん、「白秋満喫の旅」。

裕が、カツカレーを食べた晩、小学生時代に社会科の授業で使った副読本の郷土誌をもとに、小田原文学館→伝肇寺→小峯山→白秋散策道→めだかの学校=バス約五分→小田原駅の計画をまとめた。

図解入りFAXを長谷川先輩に送った。送られた先輩は、深夜十二時の少し前に電話をかけて来た。

「明日、都合がつけていただければ、ぜひ行きたい」と。

「わかりました。お待ちしています。金曜日の授業は2コマです。いずれも小久保先生の授業。

先生は、河童論を深めるために調査に出掛けていま
す。ですから休講と同じです。好都合ですね」

「山中君『分水嶺』って、ご存知ですか」

「いえ」

「要するに、僕は人生の分岐点に立っている。作詞家になりたくても、僕の詩には調べがない。それが何かを掴むために、ずっと白秋ゆかり地:小田原に行きたかった」

「明日は、晴天のようです。午前十時に、小田原駅東口二Fの小便小僧像の前でお待ちしています。

小田原駅に着いたら、誰かに聞いて下さい。知らない人は居ませんので」

「解りました。では、おやすみ」と言って、長谷川先輩は受話器を置いた。

裕は、広辞苑で『分水嶺』を調べる。
広辞苑によれば、「分水界(二つ以上の河川を分かつ境界)となっている山脈。分水山脈」と。

程なく床に就いた裕は、やっぱり長谷川先輩は何かに悩んでいたのかと思う。しかし、間違いなく珍道中となる予感が過った。夢一杯の気持で、眠りに就いた。


第七章 「白秋満喫の旅」にて


裕は、小田原駅で長谷川先輩を待っていた。9時45分、5分を待たずに長谷川先輩は現われた。

首から、立派な双眼鏡を下げていた。ともに、本物に真剣に向かう心構えです。

この時、
「3年進級時に芸術学部音楽科に編入する」と裕は、長谷川先輩に告げられた。誰にも話していない2人だけの秘密だと。




第八章 第二回文芸サークルミーティング


今期二回目の文芸サークルミーティングが行われている。

昨日の長谷川先輩との「白秋満喫の旅」は、2人の秘密と約束をしていた。

理由は、長谷川先輩の『分水嶺』は、誰にも打ち分けていなかったからである。

裕も、先輩との秘密ごとができたことで、学生生活をより主体的に生きている気分となり、嬉しく感じていた。

田中部長の司会で始まったミーティングは、夏合宿の件です。

都心から南にはずれた拠点の学校から、『安・金・短』で二泊三日を過ごせる著名な場所が、毎年選ばれていた。

昨年は、三浦半島での「地曳網ツアー」。

「今年も、『安・金・短』で楽しめる場所にしたい。

恒例の二つのルールを確認します。
・二年生が、提案/企画/運営をする。
・ミーティングは、初日の一回目で後期の活動方針を決める。
以上。

では、この場を長谷川君と木村君に任せます。」と田中先輩が言う。

ところが、木村先輩は、お決まりの遅刻でまだ来ていない。長谷川先輩が立ち上がり、サークルの仕切り役となる。

「では、今年の夏合宿の行く先を決めます。候補地を幾つかあげて、その理由を聞いた後で、決議を行います」と言った。  

裕は、スパーチューズデイ並みの緊張感。

そこへと、木村先輩が現われた。1時半より、少し前。

「皆さん、2晩の徹夜と3回の昼寝に耐えながら、今年の合宿提案資料を作りました。
今、学生会館でコピーをしてきました」と言った。

随所に、天才的な能力を発揮する木村先輩の提案資料は、見事でした。

時間/見所/挿絵、何をとっても頷くばかりの計画書であった。木村先輩は誇らしげに、テーマを述べた。

「関八州を治めた小田原と二つの滝をめぐる箱根縦走の旅です」と完結に述べた。

お決まりの全員皆勤メンバーに、反旗を翻すものは無かった。

司会となっていた長谷川先輩は、昨日の出来事が無かったように振舞うのが精一杯であるかのように、裕の眼に映った。

事実、長谷川先輩は昨日の出来事に、修羅を切るのに精一杯でした。

「木村君、見事に描かれているデッサンを手掛りに、皆さんにコースの魅力について話してください」と代々木先輩は言う。

「はい。小田原は新町田駅から1時間程度です。近い。そこには、関東では比類なき立派な小田原城があります。

もちろん鉄筋。三層五階の天守閣も立派である。しかも、巨大な関八州を治めた小田原城天守閣付近の名所は、まさに歴史を示す本物であり、さりげないところにその姿が保たれています。

小田原駅から、登山鉄道で数分のところに、『かまぼこの里』駅があります。

幕末、江戸の各藩で抱えきれなくなった水産物調理職人が、生きる場を近くて雑魚が取れる場に職を求めた。小田原の網元は、腕自慢の職人を囲った。

これが、小田原の蒲鉾と伊達巻の起源です。

その文化を徹底的に昇華し、『かまぼこの里』を作ったのが、鈴廣です。鈴廣という名は、相撲の土俵の吐き出しや呼び出しのおっさんの着物に染めこまれている。

また、箱根駅伝五・七区の中継点としても、正月早々にテレビで映る。

そこには、『買う・食べる・遊ぶ』をテーマに、一大リゾートを目指したエンターテイメントが展開されている。
蒲鉾を作る一級職人らが、直接手解きをする蒲鉾作りをする体験教室も、予約をすればOKです。

その晩は、小田原の安いビジネスホテルに泊まる。翌日は、箱根湯本までバスで行く。そこから、元箱根行きの旧街道を走るバスに乗り換える。

約15分で畑宿に着く。畑宿は、寄木細工ゆかりの地である。その畑宿から約30分急坂を登ると「飛龍の滝」がある。

さらに、1時間くらい歩き、湯坂路(馬で越した箱根八里の古道)を十文字にまたいで、しばらく下ると、千条の滝がある。「ちすじのたき」と読みます。

ミーティングは、初日の晩のみ。二晩目は、ゆっくりと大原学園寮でゆっくりと温泉三昧。翌朝、小田原産の小鰺で朝食をとる。
その後、登山電車でスイッチバックしながら、湯本まで下る。湯本からは、急行で新町田までもどり、昼には解散となる」と語った。

皆は、行く前に感動した。満場一致で、夏合宿は、『関八州を治めた小田原と二つの滝をめぐる箱根縦走の旅』となった。

田中部長は、
「では、木村君と長谷川君は、ガイドブックとチラシの作成を急いでください。

仲間への知らせは、サークルの掲示板を活用してください。皆さんも、彼らの尽力に感謝しつつ、合宿の準備をして下さい。
また、次回の個人報告をもって前期最終活動とします。
前期試験に、立ち向かって下さい」

今日は、開始の歌は無し。しかし、終了の時には起立と同時に、誰とも無く「慈しみ深く」を歌う。島崎さんの音痴の酷さに、裕らは今日も驚いた



第九章 今期最後のサークル活動


今日の発表は、『「農学部四年生の蜂矢由美子さんです。中国作家「魯迅」を研究しています。「地上の道」の話をぜひお聞き下さい」

“家事をこなしてくださる異性の同居人を募集しています。”の蜂谷由美子先輩。

用意された始まりの歌は岡林信康の「友よ」で、終わりの歌はボブ・ディランの「風に吹かれて」です。ちなみに、このサークルの大方は、楽譜を初見で理解できる。

蜂谷先輩の発表は、武田先輩よりも鋭く、ヒューマニズムをモチーフとしていた。

「私は、二十世紀の偉大な文豪・魯迅について発表します。凡そ30分を頂戴します」と口火を切る。

「まず、魯迅について。『狂人日記』と『阿Q正伝』等が代表作です。学校の教科書では、『故郷』の一説がよく取り上げられています。魯迅は、二十世紀初頭に現在の東北大学で医学を学ぶために留学をした。

藤野先生からとことん解剖学を伝授されました。ところが、その在学中にショッキングな出来事がありました。中国人が大量虐殺される映画を見ていた同じ中国人が、不快どころか快感を示した(「藤野先生」より)。
魯迅が、医学よりも文学の力で、文化の革命を目指すきっかけとなる。

その後、教育や文化を担う国家的要職をこなす。官人としての役割を十分に果たしたことは言うまでもないが、それは国家レベルの話に過ぎない。

むしろ、魯迅は文学活動を通じ、徹底的に悪しき中国の因習を否定し、新しい社会の創造を喚起しました。それは、人類史に残る大きな仕事であったと言い切ります。
今日の発表は、『藤の先生』と『孔乙己と『故郷』を用い、魯迅の思想のあり方を話します。

世界的に偉大な文豪:魯迅は、社会主義的文学者と位置付けられています。しかし、その思想は東欧型社会主義ないしは中国的社会主義の発想を超越しています。

永劫未来の人類の可能性を求めたことが、魯迅の功績であると私は思います。

また当時、政治権力で中国を、始皇帝以来の大統一を目指
していた毛沢東や蒋介石、また周恩来でさえ、彼に一目置いた」

むずい。
聞いて解るのかなと、裕は思う。

蜂谷先輩は続けて
「魯迅は社会主義的革命をもたらすべく理論ではなく、物事(人の行動と思考=潜在性)を見極め、開放し続ける発想の提案をした「世界的文豪」です。
 魯迅が、教育官僚の要職を歴任したからという理由ではなく、魯迅は教育の重要性を常に問い続けています。


小川太郎先生の著作や竹内好『魯迅』(未来社)の中で、『孔乙己』は、注目されています。私にとって非常に興味深い事柄であります。

公務員試験を学び損ねた者が、学ばなかった者が悲劇なのかと、二十世紀初頭の中国の酒場を舞台に短文で描かれています。
いずれが批判されるべきか。私の僅かな人生経験では、紐解けません。
むしろその議論は、教育が必要かどうかの前提とした土俵で、一旦解決したいと考えます。その上で、教育の役割をハッキリされる必要があると思う。

また、私は『孔乙巳』に、別な視点での「教育的指導」を示せる人が居なかったことが悲しい。二十世紀の初頭の中国のみ(中国の国民性のみ)の課題に止まることとは想えません。

現代の日本においても同様に学び損ねた若者が多いと指摘する。そして、その一人であると、敢えて記します。

鋭い人間行動への洞察力、そして潜在的可能な社会的変革の提言などから、魯迅の思想は、広大無辺なものと確信しています。

『藤野先生』のアンサーメッセージと信じる『故郷』の素晴らしい一説を朗読します。

『希望ということを考えたとき、突然わたしは恐ろしくなってきた。

―中略―
私の願いは遠くはるかなだけである。
―中略―

わたしは思う。希望というものは、もともとあるとはいえないし、ないともいえない。それはちょうど地上の道のようなものだ。

実際地上にはもともと道はないのだ。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ』魯迅著『故郷』1932年」

何だか、解ったかの錯覚を裕は感じた。しかし、依然とサークル室は、凛とした雰囲気が張り詰めていた。

「最後に、『地上の道』に関して、簡単に説明します。 人には、それぞれ夢や希望があります。
また、人は多くの人たちと社会生活を営んでいます。その中にあって、「自分が」の発想を大なり小なりあることは、誰も否めません。

ならば、諸事においても皆が叶えられる未だ無い世界を求めよう。それが実現すれば、あたかも公道の如く誰もが歩くことになると語られていると思います。

わたしも、『地上の道』を心のどこかに置き心掛けます。以上で、私の発表を終わります」


本日の発表も、大喝采。マドンナこと蜂谷先輩の発表は見事でした。
農学部でミツバチの研究をしていると聞いたが、蜂谷先輩の方が鋭い針を持っていると感じたのは、裕だけではなかった。

田中部長が立ちあがり
「皆さん、あらためて蜂谷由美子先輩に拍手をお願いします」
再び、大拍手。

「では皆さん、前期試験を頑張ってください。次は、掲示板で案内された合宿の集合場所でお会いましょう」と会を〆た。

終わりの歌は、ボブ・ディラン「風に吹かれて」。



第十章 夏合宿にて


前期試験が終わり、夏休みまで後3日となった昼過ぎに、夏合宿の詳細が告知された。

     記
期日 令和2年8月10日~8月12日
集合 新町田西口改札券売機前 午前8時
会費 5,000円

順路
〈1日目(8月10日)〉
新町田―箱急電鉄→小田原(小田原城散策/サークルミーティング)

〈2日目8月11日)〉
小田原駅―箱根登山バス→畑宿(箱根寄木細工)―歩き→飛龍の滝―歩き→湯坂道―歩き→鷹巣山城跡―歩き→浅間山頂上―歩き→千条の滝―歩き→大原学園箱根農場内ロッジ(温泉満喫)

〈3日目(8月12日)〉
小涌谷駅―箱根登山線→かまぼこの里駅(昼食・かまぼこ体験教室等)―箱根登山線→小田原駅(解散:16時)

リーダー 田中八郎(3年)
準備 長谷川真一(2年)
連絡 木村琢也(2年)
記録 谷川俊一郎(3年)
庶務 ドースルカズ(1年)
議事顧問 武田哲夫(4年)
蜂谷由美子(4年)
川口陽子(4年)
後援者 島崎徹様
連絡先 通常 長谷川・木村携帯
緊急 田中携帯

尚、顧問の小久保先生には、すべて承認を戴いております。また、大原学園箱根農場内ロッジにお見えになります。
以上

各自は、掲示板の内容を知った。夏合宿決定会議の際、木村先輩が描いたデッサンはさらに手を加えられ、立派な小冊子として完成していた。
掲示板の脇の漆塗りの箱に、収められていた。皆は、ありがたく1部ずつ持ち帰る。


故郷に帰る者、バイト三昧の者、カップル旅行、補講の多き者、2人と同じ過ごし方がないようだ。
裕の夏休みの目玉は、「東京―博多 ローカル電車で往復の旅」でした。


8月10日9時45分頃、予定より30分遅れの箱急電鉄に乗り松田駅を通過していた。「まもなく、小田原です。お忘れもの・・・」と車内放送。

30分遅れの理由は、木村先輩の遅刻が原因。裕は、小田原駅箱急線改札口で、皆を待っていた。到着は、10時ちょっと前に。
蜂谷先輩と川口先輩が、お揃いのTシャツを配布した。水色のTシャツにローマ字で個人名とサークルのロゴが入っている。それぞれが、駅のトイレで着替えてきた。

小田原一の名所といわれる小便小僧像の前で、記念写真を撮。もう1枚、小便小僧像と木村先輩が並び、同じかっこでのツーショットをデジカメに納めた。罰ゲームでありながらも、木村先輩が1番喜んでいた。

田中部長が、
「ここは、山中君のお膝元だ。小田原城を案内してくれるかい」

「はい。喜んで」と、またしても飲み屋チェーンの店員風に返事をした。受けねらいであった。

裕の案内で、お堀端どおりを通り、馬出門に着いた。今年の4月に落成した立派な漆喰造りの門。太鼓橋を渡り、馬出門をくぐった。
さらに、半円の庭園をコの字型の順路に従い進み、今度は赤胴門があった。立派であった。内堀とのコントラストは、タイムスリップするかの如くである。
「ここは、大河ドラマなどのロケによく使われます。最近では、『淀姫』の梅田門外の変の場面に使われました」

一行はさらに、クランク続きの砂利や石段を登り二の丸を過ぎた。その先は、本丸に通じる常葉木門があった。ここの急な石段を、またもやクランク状に登った。

門を通り過ぎると立派な三層五階の天守閣があった。昭和35年の復元鉄筋製である。

常盤木門の脇には、なんと象が居た。名は、小田原市花の梅に因んで「うめこ」。六十年以上も前から、ここで皆の心を癒している。目の前の天守閣よりも年期が入っていることに、裕以外は些か驚いた。

入場料200円を払い、天守閣に登る。お城・歴史・小田原の文化等に関する諸々の物が展示してある。最上階は、回廊式のパノラマ展望台でした。

北には丹沢、西には箱根、南は大島が見える相模湾、東は房総半島の先端まで見えた。皆は景観に満足。

次に、腹が減った。城を降りて遠回りするように、南側にある二宮神社を通過しながら蕎麦屋に行った。

実は、その裏側に多くの史跡がほったらかしになったまま残っている。

最近、ようやく少し手を入れ、説明の看板が立ち始めている。関東大震災で崩れた石垣をそのままにしてある場所もある。


蕎麦屋は、大原大学の先輩のお店。お勧めは、黄な粉の入った汁をつけて食べる天ザル。

通常、1200円であるが大学のHP割引券のコピーを差し出し、1人前980円にして戴いた。


宿は、近くの清水荘。国道一号線を挟んだ小さな木造建築である。部屋割りは、小冊子に書かれていた。

先輩方は二人部屋で、ドースルカズは三人部屋です。

近くには、小田原文学館や歴史資料館や多くの史跡がある。午後5時のミーティングまで、自由行動でした。

5時少し前には、皆が朝食を戴く広間に集まった。会議用として、旅館の配慮で無償提供してくれた。

ほどなくして、田中部長が立ち上がる。
誰ともなく「線路は続くよ、どこまでも」を歌った。

「定刻となりましたので、ミーティングを始めます」と田中部長がいった。

既に、日焼けした者もいた。

「議題は、後期の活動についてです。今期は、小久保先生の言葉(ミレーの話)を手掛りに、5W1H方式で決めて行きます」

口火を切ったのは、武田先輩。

「私は、かねてから戯曲の輪読会を行いたいと考えていました」

「おもしろそうですね。」と谷川先輩が引き取る。さらに、

「木村君が、シェークスピアに詳しいから、良い物があったら紹介して欲しい」

ついで、川口先輩が
「シェークスピアから、選ぶといっても四大悲劇・四大喜劇等、どれをとっても名作ばかりだからねぇ」

「私は、魔女に翻弄されたマクベスが好きです」と蜂谷先輩。

冷房はかかっていないが、浜風が網戸越しに入ってくるので涼しい。

ヒグラシの鳴き声が聞こえ始めた。蚊取り線香の臭いが懐かしく感じる。

皆は、その場に打ち解けて、熱気ムンムンの議論を交わす。

「ジュリアス・シーザーもいいよ」と長谷川先輩が言った。「ルビコン川を渡る件に、僕はロマンを感じます」

「ドースルカズからの御意見は、ありませんか」

「人のためにも ということと、戯曲という点では、わかりやすく楽しい喜劇の何かが良いと思います」と野口君が、引き取ってくれた。

「『ベニスの商人』を読んでいる最中です。子供たちにという観点から、読み聞かせができれば良いと思います」と吉田君が言う。

シェークスピアの権威、木村先輩は
「子供たちや老人ホームを慰問し、読み聞かせ朗読会をすることは大賛成です。しかし、シェークスピアの喜劇は、余りにも深いよ。

金・政治・人種・経済など、あらゆる要素があって、屁理屈で肉一ポンドを切り取られずに済んだという笑い話でない。

『セロ弾きのゴーシュ』が解り易くて良いと思います」

「たしかに、だ。木村君に賛成です。人種を逆手に取った議論は、万人向けではないと思います」と、島崎さん。

「著作の話ではありませんが、父の友人が土日に子供を預かるNPOをやっています。同じ鉄道ファンつながりでメールをやり取りしています。

そのなかで、誕生日会に慰問朗読をして欲しいと頼まれました。

確か、2月の第2週が良いと言っていました。脱線してすみません」と裕。

「そうね。シェークスピアは、キムタクの個人発表でじっくり伺いましょう。
キムタクの『セロ弾きのゴーシュ』の提案と山中君の話をまとめると、後期の活動として、『自分だけではなく』の活動目標が、成り立ちそうですね」と蜂谷先輩が言った。

「田中部長、まとめて見てください」と川口先輩が言った。

「はい。私見も含め、まとめます。〝令和3年2月第2週の週、山中君の知人の会で、大原大学文芸サークル一同が『セロ弾きのゴーシュ』を輪読する。いかがでしょうか」
満場一致で、決定。

「次に、どのように取組むかについて決めます」

「では、二つ決めましょう。一つは役割、もう一つは練習方法です」と谷川先輩が言った。

「そうですね。でも、役割は一同が読んでからでも遅くない。
今は、皆が腹ペコ。今日は練習方法だけ決めて、夕飯とします」

「通常の木曜日の輪読会を充てると良いと思います」と川口先輩がいった。これまた、満場一致で決定。この日も、誰とも無く「慈しみ深く」を歌った。


夕飯は、午後7時にありつけた。蒲鉾と塩辛と梅干が名物と紹介されながら、料理が運ばれた。

豪華な船盛が二隻出てきた。島崎さんの奢りである。禁酒・禁煙での大宴会は、深夜まで行われた。


翌日、六時起床で、アジの干物の朝食をいただいた。宿にお礼の言葉を述べ出発。小田原駅までは約10分で着いた。

早速、昼飯と飲み物を小田原駅自由通路下のコンビニで、皆は調達した。木村先輩は、二日酔いのよう。

しかし、誰一人として、口にはしなかった。最低限の会則は、守ったからである。

一行はJR小田原駅から、湯本駅経緯で畑宿まで、伊豆箱根鉄道バスで行った。そこで、株式会社金指ウッドクラフトを確認した。箱根駅伝往路優勝チーム送られるトロフィーを作る方がここの社長である。

その後、「畑宿夫婦桜」という有名な古木を右手に見ながら坂道を進んだ。畑宿から約三十分で飛龍の滝についた。

急坂の斜面にある。二段となった滝は、合計で約四十メートル。神奈川県内では、最大級を誇る。

10メートルくらい手前に近づいた時に、水しぶきを感じた。それまで寡黙であった一同は、蘇らせられた気分になった。

「ここで、30分休憩を取ります」

それぞれに、食べ物や飲み物を口にした。木村先輩は、新聞紙を持って草むらに消えた。戻った時には、清々しい顔をしていた。

「さあ、出発です。次の目標は、湯坂路です」と長谷川先輩が言った。

丸太製の階段・泥道・石畳、命がけの草むらショートカット。とにかく登る一方で、またもや寡黙の集団と化していた。「はあ はあ 」という言葉だけ。

ようやく、鎌倉古道の湯坂路にたどり着く。平坦な道と晴天の空を拝めた。

人間ケーブルカーをずっとやってきたことへのご褒美の空間でした。

こんなに山奥でも、山道の修繕をしたり、植栽の手入れをしたりしてある。地味な観光開発活動だなと、裕は悟る。

田中部長から、
「食事にしましょう。今、十一時半ですので、十二時半までとします」

食後、芝生で昼寝をする人が居た。向こうの山に向かって「ヤッホー」といってやまびこを楽しむ者も。

木村先輩は、またもや草むらから出てきて、すっきりとした顔をしていた。田中部長の合図で出発した。

「12時半を過ぎました。このあと、鷹ノ巣城跡などを楽しみながら、千条の滝を目指します」

今度は、下り坂中心で楽だと思いきや、そうは行かない。登りで消耗した脚力に、追い討ちをかけるが如く、下り道は辛かった。

2時前には、千条の滝に着いた。一同、目標の九分九厘を達成した気分であった。

最後の細い土の急カーブをまがり、そこへ着いた者は、誰もがそう思う筈である。

地層がずれたかの如くできた三日月状の公園。南面する切り立つがけの3メートルぐらいから水が、幅10メートルくらい湧き出ている。

ニュートンの法則により、下に流れ出ている。これが、千条の滝。高さのある滝は、爽快な気分になる。千条の滝の如く、岩の中腹から沸く水の動きは、涼を誘う。

辛い思いをして、ここまで来て良かったと誰もが思う。記念撮影としばらくの休憩後、今晩の宿に向かった。


宿に着いたのは、3時少し前。宿の前で、デカイ顔より大きい笑顔で、小久保教授が待ち構えていた。

先生は、皆と一緒に温泉に入った。温泉の効能を説明している先生の話を上の空に、サークル仲間は温泉を味わっていた。

食事は、食堂で六時に用意される。皆は、それぞれにのんびりと時を楽しんだ。

食事の前に、先生に後期活動の報告をする。そして、先生からアドバイスを戴く。

これは、恒例の営みです。今年もそうするために、五時半に食堂に集合した。田中先輩は、合宿に来てくださったお礼と、後期の活動報告をしました。

「大原大学文芸サークル一同は、令和3年2月第2週の週末に、山中君の知人の会で『セロ弾きのゴーシュ』の輪読会を行います。
そのために、毎週木曜日の活動をその練習時間に充てます」

「ほう、童謡の輪読コンサートかい。それはいい。しかし、そのために君たちは、今日まで何をしてきましたか。『落穂拾い』のヒントの答えならば、私は肯けない。

なぜなら、それは君たちの作業であり、人のためならないとは言い切れないが、君たちである必要も無い。

大切なのは、君たちの心だ。心が、言葉や行動となり、人に映る姿となる。言わば、思いやりを潜在意識にまで落とし込んで欲しいね。

芸術、とりわけ音楽・文学・絵画は、そこへ行きやすい営みです。どうかそこを理解して、後期の活動を自己満足で済まさないように頑張って戴きたい」と厳しい表情で話した。

まもなく、食事に。外は、まだ日が射している。鳥や草むらの兵どもの声が聞こえる。この不協和音は、都会の生活にはない。

また、大きな都会の公園のそれとも違う。宴も酣となったころ、ロッジには灯が燈された。

木の建具からもれる明かりは優しい。苦労して登った山奥には、先生の厳しいアドバイスが待っていた。

しかし、昨晩の宴会で深めた仲を確認し合う。食事が始まってからの先生は、いつもの表情である。

心に沁みた先生の言葉は、それぞれに実行を決意していた。今日も、遅くまで語り合うようだ。


翌日、スイッチバックの箱根登山線でかまぼこの里駅まで降りた。何回か止まっては、今来た方へと走り出す。運転手と車掌が、駅ごとに入れ替わる。

花の散ったアジサイに、カタツムリが止まっているのが解るくらいの速さで下ってきた。

箱根湯本まで降りて来た時、昨日バスで登った山際を確認した。

かまぼこの里駅に着いたのは、10時頃。大きな売店の裏口が、かまぼこの里とつながっている。

売店を通過すると、箱根駅伝五・七区の中継点でした。

国道1号線挟んだ目の前には、見事な蔵付入母屋造りの建物がある。

一行は、箱根方面側にあるかまぼこ博物館を訪ねた。入場無料。

正面奥のガラス張りの向こう側で職人さん達が、かまぼこやおでん種のような物を作っている。

そのほか、かまぼこを造る道具や原料となる魚の模型などが展示されている。

その脇で、体験教室ができるようになっている。彼らは、11時に予約をしていた。

裕らは、階段を上がった。上がってみると、回廊となっていた。皆と歩いた。

そこは、かまぼこの板に絵を画いた作品が飾られていた。手塚治をはじめ、多くの著名な画家が描いた板絵もあった。

2年に1回、公募で板絵コンクールが行われるそうです。それらの立派な作品も並べられていた。

彼らは、唸るのみであった。そうこうしているうちに、体験教室の時間になる。

指導者は「W・A・D・Aの和田です」と。その後の買い物中に、日本で初めてのかまぼこ一級職人と知った。

寡黙な風貌の奥には、優しさを覚えた。皆は、運が良かったと喜んだ。かまぼこ造りは、とにかく難しかった。

右手に刃のない平たい包丁を持つ。その包丁ですり身を練る。さらに、薄く延ばし少しずつ半円を描くように板に付けて行く。

職人さんが何となく行う所作を、彼らはまったく出来ない。出来上がったものは、個性ある作品ばかりである。

次に、ちくわを造り。平たく延ばしたすり身を竹の棒に巻きつけてゆく。

まったく出来なかった彼らに、職人さんは裏技を教えてくれた。それは秘密とする。

加熱調理が済むまで、しばらく時間がかかる。その間に、かまぼこの里のレストランで食事し、売店で買い物をした。

売店で驚いたのは、かまぼこ職人がいろいろな物を作っていた。それが、あたかもアトラクションのように映る。

帰りに博物館に寄って、それぞれの作品を受け取った。かまぼこの里駅から、およそ10分で小田原駅に着いた。

田中部長が
「皆さん、ご苦労様でした。また、島崎さん、ご馳走様でした。この次に皆が揃うのは、9月21日(月)です。

それまで、暴飲暴食せずに健康を保って下さい」と言って解散をした。

それぞれに、小便小僧像と別れを惜しむ。



第十一章 後期活動開始


「そうですね。折角の『古都』輪読を中止する術はないですよね」と川口先輩。蜂谷先輩は内定式の準備の為、今日は欠席でした。

合宿の際、気付かないうちに、『古都』の輪読が途絶えてしまう決定に、谷川先輩が動議を唱えた。続く、長谷川先輩と田中部長も賛成していた。きっと、蜂谷先輩も賛成してくれると皆は思う。

島崎さんは、
「そういう気持ちは、大切にしいたですね。すべてをやりきりましょう」

「では、とにかく実践しましょう。次回に、『古都』は、読み切りましょう」

一同、賛成の拍手。

定例の個人発表は、三十分遅れで始まる。今日の発表は、川口先輩です。

「年に一度のペースで行う個人発表は緊張します。私は4回目の最後となりますが、今日もまったく同じ気分です。

でも、これが最後かと思うと、何だか寂しい気もします。

今日は、三島由紀夫の『豊饒の海(全四編)』をまとめるつもりでした。

しかし、再読した最後の『天人五衰』」で消化不良を起こし、まとめ切れませんでした。すみません。  

そこで、先日読みました世界の文豪・夏目漱石の『それから』について述べます」

皆は、あっけに取られた。川口先輩は個人発表をしっかり準備していたことと、それがライフワークの三島由紀夫ではなかったことについてである。

川口先輩は続けた。
「世界の文豪・夏目漱石は、江戸人最後の存在です。漱石は、日本の西欧化が、急速に進むことを恐れていたそうです。

そのことは、『倫敦塔』や『カーライル博物館』を読むことで、理解できると言われています。

ですから、東京帝国大学の教授の座を固辞し、新聞社での連載小説作家の道に進んだ、とある解説に記してありました。 

そうして、急速に進む読み書きの普及する世に、新聞小説としてその思想に力を注いだそうです。

一方、漱石は自然科学のように、言葉を駆使して人の生活を表現することに挑戦しました。

そのことは『文学論』を読んで、参考にされたい。

後期の作品『行人』『こころ』『明暗』で実践されています。中でも解り易いのが『こころ』です。

人の心をあたかも科学的な分析さながらに説明しました。

西欧自然科学の恩恵であるとともに、文学を科学の地位までに押し上げたのは、漱石の功績と称えられています」

「今日の発表は、『それから』についてです。いわゆる、漱石前期三部作の中心的著作です。先立って小川三四郎主役の『三四郎』は、読みました。

『門』は、まだ読んでいません。その中間にある『それから』は、高学歴でありながらも、親の脛をかじって生きている代助が主役です。

かれが、よっぽど好い気になって生きる様を痛烈に批判した作品です。それでは、レビューとしてまとめた文章を読み上げます」

「「それから」は『それから』という題名を「三四郎」の後を意味する「それから」と捉えるのが、一般的な見解である。しかし、私は「それから」以降を『それから』と捉えます。

近代、資本主義の萌芽期の明治時代にて、前近代の所産を投資し、所謂富裕な市民階級が現れる。

代助の生家もその類。甘えた彼は、現在のフリーター以下の遊び人。

たまたま、親の脛を齧りつつ学問を修めていたが故、「高等遊民」と位置づけられた。

友達は社会に出て、それぞれに奔走。中でも、故郷の役所に勤めた友に本を贈る件は、親切とは言え、身の程知らずとしか言い様がない。

もちろん、平岡と美千代の仲介は、言葉もない。

しかし、であるからこそ「それから」の話が成り立つ。もちろん、代助は、善良な人間である。

終盤、ついに親・家族・家をも裏切る行動に出た。

所謂「高等遊民」たる代助の境遇は、浮世のメリーゴーランド状態となる。東奔西走先さえも見失う。

題して『それから』と私は捉えます。

余談ですが。草枕の那美さん、愚美人草の藤尾さん、ここでも美千代さんを美しく描いている。

漱石って、美人を描かせたピカイチですね。以上で、私の発表は終ります」

今日も、大拍手。

幾分、ふっくらしたイメージの川口先輩が、皆の目にはキリッとした最上級生と映る。

川口先輩自身は、ライフワークの三島由紀夫を話せなかったこと、付け焼刃の漱石論を論じたことで、複雑な思いでした。

しかし、皆の拍手をもって4回目の発表を成功させた達成感を味わう。

「再度、拍手をお願いします」


盛大な長い拍手の後半に、田中部長が今後の活動方針を示した。

「次回の木曜日には、『古都』の輪読を終わらせます。そして、次からは『セロ弾きのゴーシュ』とします。土曜日に、輪読会の方法を検討します」

ドースルカズは、真っ青になった。急がねばならぬ。明後日までには、読み上げなければならなかった。

彼らは、終わりの歌たる儀式を忘れていた。すでに、第二フレーズまで、周りは歌っていた。今日用意された歌は、「よいとまけの歌」であった。

田中部長と谷川先輩に、帰りの挨拶をした。

谷川先輩は、
「焦らなくていいよ。読むだけが輪読ではなく、聞くことも合わせて輪読ですから」と挨拶代わりに、アドバイスを与えた。

島崎さんがその後ろでニコニコしていた。

川口先輩は、くたびれた様子であった。携帯で、彼氏と会う約束をしているようであった。

モミジやカエデは、夏の強い陽に照らされ日焼けしたように、いくぶん紅い。

学園内では、スーツ姿の4年生が増えてきた。就職活動が始まっているようだ。

ヒグラシの鳴き声も聞こえなくなった学園内で、体育祭や文化祭の準備が始まっている。

夜8時過ぎまで、中高生の姿を見かける。一年で一番学校が活気付く季節が、この時季に他ならない。



第十二章 元放送部と再会


「へえ、意外だね」と小川さんが言った。

「とにかく、高等部出身が少ない」
「そうならば、長谷川さんとの出会いがなければ、ショッパイ大学生活だったわけね」と山崎さん。

「でも、みんなは、生活のためのアルバイトが忙しい。上級生になると、仕送りが家賃と光熱費ぐらいだそうだ」と裕が付け加えた。

「それは、大原大学に限った話ではないけどね」と上野君が引き取った。

集まった数人は、裕よりも成績がよく、外部受験で成功した者ばかりであった。医学部に入った坂田君は、幼稚園から高等部までを過ごした。
その坂田君が、
「僕も知らなかったなぁ。裕の言うとおり、高等部までは毎日一所懸命にやっていただけだし。
先生たちは、手を抜けば名指しで怒ったし。楽しく思えるのは、今やっとかな。

でも僕は、ずっと大原大学の大学生に憧れていた。とにかく、自由に見えた。医学部があれば、外部受験をしなかったよ。僕は、大原学園が好きだったし」

「わたしも、そうよ」ほぼ、同じ経歴の山崎さんが言った。

今日は、上聖大学に進んだ山田君の文化祭に皆は集った。山田君は聖歌隊に入り、今日はその活動発表会。

彼もまた、大原学園のDNAをたっぷり背負っている好青年である。


開場時間30分前に、上聖大学のチャペル前へ気の合う仲間は集る。いまだに遅刻厳禁の習慣により、1時間前。

そして、大原大学の話に花が咲いたという訳である。

小春日和の10月30日の日曜日。日差しは強かったが、爽やかな風が吹いていた。

上聖大学の植栽は、都内でも一二を競う美しさである。庭園の草木は、徹底的に手入れが行き届いていた。

学び舎を防風林のように囲う雑木林は、自然さながらであった。木々には、緑の看板に白字で種類が記されていた。

また、小鳥のさえずる声や、なぜか都会で御馴染のカラスの鳴き声も聞けた。リスもいた。


開演二十分前に、山田君が顔を出した。皆は口を揃えて、

「とにかく、みんな来ているから、安心して頑張れ。先輩に怒られないように、早く戻ったほうがいいよ!」と言った。

―中略―

「楽しかったね。ゴリゴリの教会音楽ばかりかと思った。まさか、ゴスペラーズの曲まで歌うとはね」と山崎さんが感動していた。

「びっくりしたね。相変わらず山田君は、生真面目だね。手を体側においてポップスを歌っていたぜ」とにやけて坂田君が言った。

「僕は、大原学園が懐かしく思えた。正面にあったパイプオルガンを思い出した」と坂上君がしんみりと話した。

「私は大学生になって、聖書や賛美歌や説教から開放され、ホッとしていた。

でも、今日の発表会を見て、なんだか違うような気がしてきた。ちょっと反省ってところかな」と小川さん。


ほどなくして、山田君がやって来た。

「ありがとう、本当に。

緊張して、君たちがどこに居るのかが判らなかった。このお礼は、いつか必ずします」と山田君は深く頭を下げた。

「相変わらず、律儀だね。お互い様だって、今度は君が御呼ばれすれば、それでアイコ」と坂田が。

裕が、山田君の肩をポンと叩いたのが合図かのように、皆は山田君と別れた。皆は最寄り駅の御茶ノ水まで歩いた。10分ほどである。

てんでに話す話は、聖歌隊の余韻なのか、高等部の話ばかりであった。大通りを渡り、喫茶店ゴーギャンに入った。

それぞれは、今の学校生活を話した。すでに、大原大学を話した裕は、聞き手に回っていた。

突然、坂田君が、
「山中君のサークル活動に興味がある。教えて」と言った。皆も頷いた。

すでに、入会した契機を話していたので、月・木の活動やミーティングの内容や合宿の思い出を話した。

皆は、真剣に聞き入る。さらに、裕は輪読会の準備状況を話した。

「それが、なかなか上手く行かずに苦労をしています。いや、僕は僕だけの苦労ですが、部長はじめ上級生は全体をまとめることに苦労をしている」と裕は話した。

「だって、凄い読書家のひとばかりじゃない。ドースルカズだっけ、一年生も休まず来ているのでしょう」と山崎さんが聞いた。

「うん。どうやら、読書量と『朗読』は、別の行為であるようです。最近のミーティングは、もっぱらその話題だけです。 

これまでに解ったことは次の二点です。硬くてすまんが。
・日ごろの読書が黙読である。つまり、声を出して、本を読んでいない。
・読む速度が、速い。すなわち抑揚をつけて、じっくりと読んでいない。

つまり、文字はストーリーを知るための記号でしかない。そして、僕たちは情報としてしか読書をしていないという結論となった。

一冊の本を段落ごとに読む輪読会では、声の大きさ・テンポ・感情のこめ方を共有しなければならない。

そのため、何回も何回も読んでいる。汗びっしょり」

「体育会並みの練習のようですね」と小川さん。

「で、何を輪読しているの」と上野君。

「うっかりしていました。『セロ弾きのゴーシュ』です」と裕は答える。

「いっそのこと、戯曲風に仕上げれば」と山崎さんが。

「もちろん、そのような話もありました。

でも、動きのない芝居になり、かえってつまらないという結論となりました。そこで、一冊の本を皆で朗読することになりました」

「いつ、発表会なの、文化祭」と山崎さん。

「来年の2月の第2週の週末です。父の知人の週末子供を預かるNPOの誕生日会です。

まだ、細かいことは、決まっていません」

是非呼んで欲しいと皆に言われた。

すでに、夕方5時を回っていた。あたりは、昼間のように明るい、しかし、日は暮れていた。

皇居の空堀にあるホームまで降りた。東京駅行組みと新宿行き組みと改札で分かれた。そう遠くない日に、また集まる約束をした。

喫茶店から駅まで歩く間、ポニョ先生の話に花が咲いた。先生は以前、小学部で国語の教師をしていた。上野君と裕以外は、よく知る教え子であったと。



第十三章 寿司折に込められたこと


11月21日(土)、今日のミーティングに小久保教授が来る。皆は、緊張していた。一方で、声を出し合い1冊の本を読み上げる作業を、皆は完成したとの自信があった。

始まりの歌が終え、田中部長が簡単な注意をした。程なく、小久保教授が現われた。

「先生、本日はありがとうございます。それでは、早速『セロ弾きのゴーシュ』を輪読致します」と部長が挨拶をした。 
サークル室に、石油ストーブはある。外は寒いが、点けていない。

ミレー「落穂拾い」とグランドピアノが、やはり守り神と裕の目に映る。

途中10分の休憩を取り、約1時間掛けて輪読した。小久保教授は、じっくりと聞いていた。

―輪読場面割愛―

「先生、宜しくお願いいたします。」

「はい。

よく鍛えた輪読と第一印象を受けました。皆で決めたことを確実に実行していることに嬉しく感じます。

しかし、上手くなったのは表現方法というテクニックに止まっている。悪く言えば、自分の持ち場の習熟に過ぎないように思える。

大事なことは、何か。この作品を通じて、君たちが何を伝えたいのか。その根本の突き詰めが甘いな。

まだ時間はある。もう一回、何を伝えたいのかをじっくり話し合い、共有して下さい。

テクニックの練習は十分だ。一つの「心」を皆で作り上げて下さい。

厳しい批評であろう。でも、今のメンバーなら必ず出来ると思います。

それから、個人発表の継続も多いに評価しています。
以上」

一同は、びっくり。またしても、ひと山のぼった頂で大宿題を課せられた。


小久保教授は、携帯電話をした。間髪入れずに、築地宝寿司の親方が寿司の配達に来た。今日は、1人前ずつの八寸の折詰で寿司が届いた。

「さぁ、食べよう」という先生の掛け声に「いただきます」と言って食べ始めた。

昼飯抜きの木村先輩は、その前に折を開け、田中部長に怒られていた。

よく考えると一浪一留で、部長よりも1歳年上である。しかし、木村先輩のキャラを皆は楽しんでいる。紙一重の存在としても、時には尊敬されることもある。

「OBの一人として、話をしてよろしいでしょうか」と築地宝寿司の親方が言った。

「でしゃばったことばかりですみません。学生の時、先生にお世話になった話をさせて下さい。

わたしたちは、団塊ジュニアの世代です。その当時、新
しい大学が出来た。第二次マンモス化が行われた時代です。大学のシステムは、どんどんIT化された時代です。

学生側にも、IT化が進んでいた。いわゆる「コピぺ」が蔓延しはじめた時代でした。

教師の中には、そのことを深追いせずに厳しく評価して終わる方も居られました。私は、パソコンが得意で、お礼を貰いながらレポートの代書をしました。

そのことが、小久保教授に知れました。先生は、学校を辞めることを勧めました。4年生の冬でした。

就職も決まっていました。また、過去のことも一言も触れませんでした。

『これから、どうゆう生き方をするのかを考えた方が良い。』といった。
また、『相談には、とことんのる』と言った。

1週間、悩んだ。

先生に会うことにした。頭は空っぽだった。ですから、先生に会うこと以外に、何も思い浮かばなかった。先生の研修室に伺った。

「どうだい、元気ですごしているか」と小久保教授が言った。

「はい、それが」

「それが」

「あのう」

「なんだ」

「反省しました」

「反省、当たり前だ。でも、反省しろとは言っていない。そこは、水に流せ。

流したあとで、君がどう生きるかの相談にのると言っただけだ。で、どうする」

「学校で学び残したことを悔いが残らぬように学びます」と言った。

先生はニコニコして『それが良い、卒論の採点は厳しいぞ』

世知に長け、よっぽど好い気で過ごした自分を棄て、一所懸命に生きる決意をした。

卒業論文を提出した。題名は『信仰について』です。私は、手書で提出しました。採点は、『秀』であった。嬉しかった。

皆さん、私が更正できたという話ではありません。勘違いしないで下さい。

小久保教授は、教え子を真正面から指導する方であるということを皆さんにお伝えしたかったのです。人生の師匠です」と話が終った。

「君の努力だよ。私は、お節介なだけだ」と小久保教授が照れた。

晩秋と学び舎に相応しい講話であった。自分の恥を持ち出し、小久保教授の魅力を話してくれた親方に感謝した。

「お茶のお代わりは、いかがですか」と蜂谷先輩が回った。谷川先輩は、感動にしていた。目が潤んでいた。

木村先輩は、お茶をこぼし、川口先輩に怒られた。さらに、屁をして、蜂谷先輩に叱られた。でも、これは谷川先輩に
エールを送った屁であった。

裕は、野口君に
「あの親方をモデルに映画が撮れそうだね」と言う。

続けて「僕だったら、凹んで花巻に帰っていたかもしれない」といまだ、親方の話に感動していた。

「提案がある。今回の訪問先が山中君のご縁だ。どうかな、彼に輪読の指揮者になってもらったら。

あまり聞かない話だが、指揮者がいるとまとまりやすいと思う。ではまた」

続いて、築地宝寿司の親方も
「頑張って下さい」と言ってサークル室を後にした。


田中部長は
「また、ゴールが遠くなったような気がします。でも、やり抜きましょう。それから山中君、指揮者をお願いできますか」

裕は、「喜んで」とウケねらいの返事をした。

「来月から、期末試験が始まります。個人発表を一旦停止します。ただし、木曜日の輪読の練習は進めます。以上」

「ちょっと待って!『一つの「心」を皆で作り上げて下さい』について、話し合いませんか」と谷川が静かに提案した。

「そうですね。このまま読み続けても先生のアドバイスを実行できる保障はないですよね」と島崎さんが引き取った。

田中部長が
「迂闊でした。今日中にそこまで進めるのが、私の役目でした。

既に決まっていることは、山中君が指揮を執ることだけです。私は、司会進行役を務めます」

「私は、記録を担当します」と島崎さんが名乗り出た。

島崎さんは、楽器屋の社長である。しかし、楽器を奏でることはしない。親から継いだ店を経営している。最近、音楽スタジオのレンタルを開始。最新鋭の機器を導入した。

島崎さんは、その機器を60の手習いとして、それらの操作に熱意を注いでいる。ここでは、工学部出身の知識が役立っているそうだ。

「私たちは、山中君にどこを指示されても、今まで磨いたテクニックで読めるように練習しましょう」と蜂谷マドンナが言った。

「そうですね。自習で磨き、練習でまとめ上げる。それは、いい方法ですね」と長谷川先輩が言った。

木村先輩は、いつも足を引っ張ってきた。でも、ここ一番には、誰よりも強い変な人。

今日も、何を根拠か
「それは、いいですね。いい効果を生むはずです」と言ってのけた。一同は、その発言に和んだ。

続いて、川口先輩が、
「伝えるべきものは何かを確認しませんか」と。

その後、白熱した議論の末、
「粗野なゴーシュが、動物たちの無償の援助を通じ、音楽を理解した。その結果、ゴーシュは立派な青年へと成長した。
ゴーシュは、感謝の心を持つことが出来たのです」と吉田君が。

「テーマは、感謝の心です」と。一同は、拍手した。

この白熱した議論は、ドースルカズと長谷川先輩が頑張った。特に、吉田君にとって、作者が郷土の偉人「宮沢賢治」であったこと。

また、長谷川先輩にとっては、高村光太郎研究の際、宮沢賢治に触れた機会があったからである。谷川先輩は、満足げ。

「伝えることは、決まりました。また、山中君にどこを指されても読めるように練習をして来て下さい」と田中部長。
誰とも無く「慈しみ深く」を歌った。

外は、寒かった。皆は、コートを持参していた。なぜか、木村先輩はTシャツ一枚で張り切っていた。

この時季の冷たい風に舞う落ち葉は、枯れてはいない。真冬を待つために仕方がなく梢から剥がれ落ちてきたのであろうか。

いくぶん紅葉している葉の様は、常盤木の落ち葉と大きな違いがある。

落ちたばかりの葉は、手のひらで粉茶の如くにつぶれはしない。むしろ、押し花の粘り強さがある。

名物の大原大池では、中州の樅の木にイルミネーションの準備が始まっている形跡。

風の影響を受けた大きな噴水の頂点は、中央ではない。烏帽子のような体をなしている。

裕は半年前、ここで「箕作り弥平」を読んだことを、ふと思い出した。自分なりに成長を体得している。

あっという間の半年であった。高等部時代の充実した学生生活の様を、再び得た気がした。

サークル仲間と、しばらく本気で過ごす決意をする。

正門脇の守衛室から、
「頑張っていますね」と声を掛けられた。
裕の心は温まった。



第十四章 思いを育む


今年初めての雪が降った。関東近辺では、正月前に雪が降ることはあまりない。

まれに降っても、〝みぞれ混じり〟か〝ぼたん雪〟である。

今日、大原大池中洲の樅の木にそっと飾りつけられたような雪は、珍しく柔らかい綿のような雪であった。

車の通る路面は、5センチくらいの逆轍ができている。白
銀の世界の路面電車の線路と錯覚をしてしまう。

舗道には、直径30㎝くらいの楕円の足跡が無数にできている。

駅から校舎まで傘をささずに、初雪を楽しむ学生が大半。裕も、傘をささずに部室に向う。

裕がサークル棟の前まで来た時に、珍しく木村先輩が早く来ているのに気がついた。その前に、川口先輩が立っていた。

木村先輩は、しょげていた。なんでも、雪でフリスビーを作り投げていて、それがベートーヴェンの銅像の顔に当たった。

まずいと思い、木村先輩が逃げたところを川口先輩に見つかったという話でした。

今日は12月4日、ホップ/ステップ/ジャンプの〝走り幅跳び〟に例えるならば、ジャンプへのチェレンジの日である。 

思えば、新入生歓迎会の「落穂拾い」でホップ。

小涌谷の大原学園箱根農場内ロッジでの「思いやりを潜在意識にまで落とし込んでほしいね」でステップ。

そして、11月21日の先生の言葉「一つの『心』を皆で作り上げてください」を目標にジャンプをする日である。

定刻に、みんなが集まった。

少し前から、父の友人である荒井義弘さんと輪読会の準備の連絡を、裕は取り合っていた。

日にちと時間を決めれば、あとは荒井さんがすべて準備をしてくれる。

荒井さんは、大原大学文芸部が訪れてくれることが嬉しかった。

「会場設営は得意だから、心配なく。とにかく、気をつけて来てください。2月13日を楽しみにしています」とメールで知らせてきた。このことを田中部長に、裕は報告をしていた。

「みなさん、先週の決意を憶えていますか。『テーマは、感謝の心です』。

また残り少ない練習時間で、小久保教授の『一つの心』を成し遂げなければなりません。ここまで来たら、やり抜きましょう。

山中君は、2月13日土曜日の準備を完了しました。既に、秒読みです」と田中部長は、みんなに〝げき〟を飛ばした。

さらに、
「山中君、ここに来て指揮をしてください。今日からは、本番と思って輪読します」

裕は、地元の間口の狭い井口楽器で指揮棒-タクト-を購入してきていた。裕は指揮棒を、正確に動かし始めた。

実は、裕は秘策を考えていた。指揮者は、モニターに映らない限り、聴衆には顔の表情はわからない。

この際、濃い眉毛を利用して、仲間に「感謝の心」を伝える方法を模索していた。

田中部長は言った。
「山中君の指揮で本番さながらの輪読をします。高学年から右へと並んでください。さあ」

ほどなく、裕の指揮棒は動き始めた。二分の二拍子の動きであった。皆は、裕の指揮棒に沿って輪読を始めた。

島崎さんは、簡易な録音設備を持ち込んだ。そして、裕の指揮棒の動きとともに録音を開始した。

みんなは、もちろん緊張していた。しかし、これまで練習をしたテクニックは、いったん棄てた。

ただ裕に指され、そこを読むことに専念しようと心がけた。

輪読が始まり、中盤を過ぎるころに、島崎さんと田中部長は驚いた。

輪読をする全員が、規則正しく頁をめくるが、本文を見ていない。見ているのは、裕の指揮棒。

すでに、なんと全員は「セロ弾きのゴーシュ」を丸暗記していたのである。

また、その余裕からか、仲間の発声をしっかりと聞いていた。これまでの自分の番を待つそれぞれの在り方が、自分以外の輪読をしっかりと聞く姿に変わった。

そして、聞くことにより、自分の役割をしっかりと果す。機械的な輪読から、たまたま自分が声を出す役割と変わった瞬間である。

裕は順番を乱すことなくタクトを振った。みんなは、タクトだけを手掛りに暗記した作品の輪読。

ゆっくり進めた朗読は、一時間後に終る。皆は、汗びっしょり。

外では、すでに50㎝くらい雪が積もっている。しかし、今は降っていなかった。とはいえ、一歩外に出れば寒い。

反面、彼らの熱気は、半径100メートル以上の雪を溶かしきってしまうほどの様であった。谷川先輩は、感動にむせていた。

蜂矢先輩は、放心状態であった。川口先輩は、座りこんだ。武田先輩は、しゃがみこんだ。長谷川先輩は、ぼう然としている。

木村先輩は、バク転をした。吉田君と野口君は、抱き合っていた。

ほどなく、
「たった一週間で。いや、後期の活動でがんばった成果が、今日のこの姿です。

山中君、ご苦労様。みなさん、ありがとう」と田中部長は、感動していた。手が震えていた。

「一言、いいですか。輪読は、読む順番を待つのではなく、たまたまみんなで読む一部で声を出す行為と理解しました。 

伝えること、伝える『心』は一つであることを知りました。
小久保教授の導きに、十分に応えることが可能であると思います」と島崎さんが感想を述べた。

その後、試験の準備があっても、2回の練習を行なった。集まった2回で、2サイクルの練習をした。

練習をするたびに、連帯感を急速に増し続けた。その記録を担当した島崎さんは、DVDに焼き付けた。


12月24日(木)、今年2回目の雪が降った。前回よりも量は少ないが、結晶のまま降る雪は美しい。大原大学では今日、クリスマス礼拝が行なわれる。

今年も、盛大に行われるであろう。関係者は周知のことである。すでに、一週間前から、樅の木のイルミネーションは点灯されていた。

早朝から白髪の老婆や禿げ頭の但さんをはじめ、多くの人がチャペルに集まった。

「雨にも負けず。風にも負けず」どころか、雪をも、ものともしない賢者ばかりと、裕の眼に映る。

学生服を反対に着たような牧師が現われた。今日に限っては、学長よりも牧師の方が偉く見えた。アメリカ大統領の就任式典さながらである。

何曲かの賛美歌を歌う。その後、著名な卒業生の講話。

チャペルに入りきれない我々のために、モニターとスピーカーが、学園内のあちらこちらに用意されていた。それでも、間にあわないくらいの人だかりができた。

牧師の許可を得てから、学長があいさつをした。趣旨は、「感謝の心」について。

ささいでありながら、忘れがちなことであると付け加えていた。セレモニーは、午前中に終えた。

午後1時に、小久保教授へ今年の最終報告をすることになっていた。定刻に、シュークリームを持って現われた。

田中部長のあいさつと合図で輪読が始まった。

―輪読場面割愛―

「良くやった。感動した。五感を生かし、自らのために読書する。しかも、みんなが全員で〝たすき〟をつなぐごとくの輪読に敬服です。

発表会には、ぜひ私にも声をかけてくさい。ありがとう」と言っていただいた。

「今夜は、みんなで第九を歌いましょう」と小久保先生は、付け加えた。持参したシュークリームを頬張りながら、サークル室を出て行った。


クリスマス礼拝に、裕は感動した。これまでの大学の公の行事は、形式ばかりで興味がまったくなかった。

先輩方によれば、クリスマス礼拝が、一年中で一番感動すると聞いていた。前評判以上であった。これが、大原学園のDNAだと合点し、満足をした。

この後、午後七時から第九『合唱』が、1周600mの大グラウンドで行われる。もちろん、裕は参加すると決めていた。

夕方、六時に約二万人の大原学園の卒業生と在学生が集った。午後2時ごろには、雪が降りやんでいた。

ヨーロピアン風の高等部と科学技術センターをバックにした大グラウンドは、白銀のコロシアムと形容したいほど、綺麗です。ここに集った方々の思いは、すなわち清い。

午後七時に、最初の音が発せられた。特設野音会場のしつあえで演奏をしているオーケストラと各ソリストの面々は、大原大学の出身者と在学生で構成されていた。いわば、学園内調達である。これは、数十年続いている。

創立者の強い思いが、引き継がれている。メンバーの半数は、国内でも著名なアーティストである。言うまでもないが、無償での出演であり、彼らのライフワークでもある。

厳かに始まった演奏のおよそ一時間半後、「フロイデン」とソリストが発声した。約15分間の大合唱は、白銀の大原学園の丘陵を、あたかも救済の世界へと移し変えた。

東十条欽のバリトンソロの完璧なでき具合に、その興奮は頂点に達した。一同は震えた。

また、諸先輩方は、今年も「第九」に参加を出来たことに充実感を味わっていた。裕も、回を重ねたいと決意をした。

裕は大原大学に入学して、よかったと体感した。


この日、感動を胸に家に着いたのは、深夜十一時半をまわっていた。
家には、「奥州の山寺では、寒くて修行にならない」と訳の解らない悟りを開いたお父さんが、焼酎をロックであおっていた。

まったく、変わっていないお父さんにホッとしたのは、
裕だけではなかった。

裕は、お父さんに言った。
「荒井さんのNPOで、輪読会をやる」
「そうか、荒井も頑張っているな!」と言った。程なく、お父さんは、酔っ払ったまま、炬燵で寝入った。



第十五章 輪読会本番


その日、荒井さんは朝5時に起きた。正確には、布団から出た。昨夜は、興奮して寝る事ができなかった。

裕の一行を迎えること。NPOの子供たちが喜ぶであろうこと。大学時代の親友菊池さんが、応援に来てくれること。
昨日、学生時代に障害者ボランティア活動を通じ、苦楽をともにした裕のお父さんに会えたこと。おまけに、自分の誕生日。

5年前、わずかな元手資金と援助者の寄付で始めたNPOもようやく軌道に乗り始めた。今回が、誕生会や折々の季節の行事の際に、ゲストを招くのは初めてです。

奥さんは、まだ寝ていた。そっと庭に出た。東にある外厠で朝小便をした。この習慣は、先祖代々受け継がれている。

菊池さんから朝六時には行くからと、昨日連絡があった。いつも時間に遅れがちな彼は、珍しく五時半に現われた。

赤い塗装のはげかけた二十年物のアルファロメオで来た。この車を維持するために、毎年五十万以上を投資している。 

十年前に、来年買うと宣言していた。逆算すると五百万円を投げ打っている。今日も、「来年買う」と言っていた。

二人は、近くのファミレスDENNY’Sに行った。クロワッサンセットを食べながら、今日の打ち合わせをした。荒井さんは、告知ポスターを菊池さんに見せた。

「荒井が、作ったのか?」

「いや、違う。山中だ」

「息子は、それ知っているのか」

「知らないさ。裕には内緒でと預かった」

「山中らしいな。人生を仕上げる修行に出ていると、去年の11月にメールがあった」

「いや、『奥州の山寺では、寒くて修行にならない』と訳の解らない悟りを開いて、クリスマスイブに帰宅したらしい」

「で、今日来るの」

「ああ、昨日の午後『いいちこ』を持ってうちに来た。今ごろ、高いびきで寝ているはずだ」

「仕事には、行っているのかな」

「去年の4月、リストラになる前に後進に道を譲ったとか言っていた。本当は、管理社会が窮屈になったと思う。

来月から、ヴェスパにまたがって干物を切りに行くと言っていた。

『人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか。「敦盛(織田信長)」』の御釣は、楽しむしかない」と言っていたよ。

「あいかわらず、勝手者を極めているな」と菊池は言った。

10時開演、12時終了
茂木町民会館・視聴覚室(200名収容)
開会の言葉 荒井義弘
お誕生生の紹介
「セロ弾きのゴーシュ」輪読
合唱「大地讃頌」
ピアノ伴奏:山中成人
閉会の言葉 荒井義弘

と、荒井さんが概略を菊池さんに説明をした。

「へえ、これも山中が企画したのか」

「そうだ」

「あいかわらず、好きなことだけは熱心だな、山中は」


茂木町の新茂木駅は、池袋から東部北上線の急行で15分くらいであった。

駅から、半径二キロの一帯は、もともと荒井家代々のジャガイモ畑であった。治水が悪く、水稲農業が不可能であった。  

おおよそ二十年前に駅ができたことで、荒井家は大富豪になった。千坪の土地に、百坪の家屋が建っている。

また、厩は五十年前のままだ。「東の外厠」は、その付帯設備である。

二回にわたる相続で、市町村に物納として土地を納めた。茂木町民会館も寄付した不動産の一つである。
それでも、いまだに広大な土地を所有し、アパマン経営をしている。土日に子どもを預かるNPOの活動は、駅前の自
社高層マンションの二階の有料集会室で行なっている。

荒井さんの生活は、いたって地味である。以前、仲間の集まりで奥さんが「あーん」といって、荒井さんの口に箸を運んだ。
それを見ていた菊池さんの奥方が「きゃー やだ、この2人。『あーん』をしている」と驚いた。仲がよく、新婚さながらである。実は訳あって新婚である。

大原大学文芸サークルの一行は、8時半に、池袋の東部北上線の北改札に集まっていた。彼らは、1月7日から練習をはじめていた。

暗譜さながらの輪読の練習は、回を増すごとに息が合った。テスト期間中でありながらも、練習が規則正しい生活のフラグとなり、学業にも良い影響を与えていた。

木村先輩だけは、練習にこそ熱心であったが、勉強はおろそかにしていたようだ。3回目の2年生にリーチがかかっていた。

「全員集まったようですので、東部北上線に乗ります」と田中部長がいった。木村だけ切符を買っていなかった。

蜂谷先輩に怒られた。実は、この二人は、こっそり交際をしているようだ。

予定どおり、9時前に到着した。西口に荒井さんが迎えに来てくれた。なんと、40人乗りのいすゞ製(1960年)のボンネットバスであった。

土日に子どもを預かるNPO活動のために、昨年購入した。同時に、荒井さんは大型免許を取得。

背が高くスリムな荒井さんに、裕はすぐに気がついた。丸顔でほほがつりあがり、その分、目が細い。

メガネの下部が頬っぺたにいつも触れている。笑うとメガネが浮く。その動きは、荒井さんの人柄を表している。

皆は、バスに乗った。バスは走り出して二分で、茂木町民会館に到着した。荒井さんは、ただボンネットバスに乗せたかっただけであるとあとで話した。


続々と観客が入場し始めた。受付と案内は、菊池がすべて仕切る。NPOの子どもたちは全員で20人。その家族が約50人。NPOの子どもたちの友達が50人。6割の席が埋まったのは、9時半ごろ。

その後、荒井さんの友人が来た。裕の放送部仲間もやって来た。今日、「大地讃頌」の伴奏をする裕の兄と母も来た。

母は兄のネクタイを直している。ちなみに、旦那のことはほったらかしである。

ようやく裕のお父さんが、荒井夫人に送られ会場に到着した。なんでも、二日酔いのうえ、下痢に苦しんでトイレに一時間くらい入っていたらしい。

最後に、小久保教授と築地宝寿司の親方が現われた。親方のマセラティーで駆けつけた。

正面の舞台は一階にある。正面左側に、グランドピアノが用意されていた(贈 荒井忠痔郎)。観客席は、一階から二階へと雛段となっている。

その前列五番目中央に、小久保教授と親方の席が用意されていた。まもなく、開演となった。その合図は、菊池さんのOKサインであった。

「定刻になりました。
本日は、多くの方にお集まり戴き、大変嬉しく思います。これまでずっと、盛大な誕生日会を開くのが、私の夢でした。  

今月の誕生生は三名です。のちほど、紹介いたします。今日は、大原大学文芸サークルのみなさんが、輪読会を行なってくださいます。

題名は『セロ弾きのゴーシュ』です。

伝えたいことは、『感謝の心』と聞いています。今日お見えのみなさまにも、身近な作品であると思います。

また、お手元に配られた『大地讃頌』の合唱も行ないます。さあぁ、二時間じっくりとお楽しみください」と荒井さんが
言った。

「今月の誕生生を紹介します。どうぞ」誕生生は、舞台に現われた。

「それではみなさん、「おめでとう」を歌いましょう。さん、はい」

すでに、会場の雰囲気は、盛り上がっている。

「お誕生日、おめでとう。皆さん、あらためて、拍手をお願いいたします」

「それでは、大原大学文芸サークルのみなさんの登場です。大きな拍手で、お迎えください」

田中部長を先頭に、十名の学生が舞台に現われた。島崎さんは、舞台下で隠れるように録音の作業を行なっていた。

「茂木町の皆さん、おはようございます。
私たちは、大原大学文芸サークル員です。今月のお誕生生のみなさん、おめでとうございます。

私たちは宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』の輪読をいたします。輪読には珍しく、音楽さながらの指揮者がおります。
指揮者は、山中裕です」

盛大な拍手が起る。裕は、深くお辞儀をした。
そして、全員の名前を披露した。最後に「進行役の田中です」と自己紹介をした。

裕は、三歩ほど前に出た。あらためて、お辞儀を。くるりと振り向き、指揮棒を掲げた。皆は、足を肩幅に開き、手元の文庫本を開いた。

裕の指揮棒は二分の二拍子を描きながら、♩=120の速さで動き始めた。「ハイ」という掛け声とともに、輪読は開始した。

トップバッターは、蜂谷先輩です。
「ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾くかかりでした。けれどもあんまりじょうずでないのという評判でした。
じょうずでないどころではなくじつはなかまの楽手のなかでいちばんへたでしたから、うつも楽長にいじめられる
のでした」と口火を切る。

武田先輩→川口先輩→谷川先輩→代々木先輩→木村先輩→金井君→猪俣君の順で、輪読は進んだ。場内は静粛です。

整ったテンポ、抑揚のある言葉、はっきりとした発声など、非の打ち所のない輪読である。

開始5分も経たないうちに、みなは輪読に吸い込まれた。人が変わっても、声が変わっても、不思議と一人が朗読しているように、誰もが聞いた。

鳥や動物たちしかり、虫たちしかり、団長もゴーシュもしかりである。12月24日のように、彼らはページを同時にめくるが、本文は見ていない。

姿勢を正し、はっきりとした言葉は、マイクがなくとも約200人に存分に聞かすことができた。中盤を過ぎたころから、皆の表情が変わり始めた。

蜂谷先輩は青白く、川口先輩は真っ赤な顔に変わった。谷川先輩も息苦しそうであった。

野口君と吉田君は、汗びっしょり。長谷川先輩は真剣そのものであった。ただひとり、木村先輩は楽しそうに輪読を続けている。

しかし、輪読の素晴らしさは、一向に衰えない。裕は、マジの一言に尽きた。この不思議な時間が、およそ一時間続く。

「『ああかっこう。 あのときはすまなかったなあ。 おれはおこったんじゃなかったんだ』といいました」と長谷川先輩が結んだ。大拍手であった。3分以上もなりやまない。

「みなさん、ありがとうございました。これで、大原大学文芸サークルによる『セロ弾きのゴーシュ』の輪読を終ります」と田中部長があいさつをした。

裕が振り向くと同時に、一同が深く礼をした。またしても、大拍手。一同は、舞台を降りた。

荒井さんの紹介で、裕の兄が登場。「大地讃頌」のピアノ伴奏に現われた。また、トランペットを持った裕も。兄弟による伴奏です。

華麗なピアノの伴奏と元気なトランペットのコンビは、いい調子で始まる。

会場の人たちは、みんなに配られた歌詞をもって立ち上がって歌う。

大地讃頌
母なる大地のふところに
われら人の子の喜びはある
大地を愛せよ
大地に生きる人の子ら
その立つ土に感謝せよ

平和な大地を
静かな大地を
大地をほめよ
たたえよ 土を

恩寵の豊かな大地
われら人の子の
大地をほめよ
たたえよ 土を
母なる大地を
たたえよ ほめよ
たたえよ 土を
母なる大地を ああ
たたえよ 大地を ああ

会場全員で大地に限りない祈りをささげ、締めくくった。

「とても、素晴らしい誕生会ができました。大原大学文芸サークルのみなさん、山中成人さん、本当にありがとうございました。

また、この会に駆けつけてくれたみなさん、本当にありがとうございます。

これからも土日子どもを預かるNPOの活動に励みます。今後も協力をよろしくお願いいたします。

これで、平成二十二年二月の誕生会を終了致します」と荒井さんは、感涙しながらあいさつをした。

皆が去った後、荒井さんと菊池さんと山中さんは、がっちりと握手をした。40年来の友情を確かめ合った。



第十六章 打ち上げ会にて


二月の半ばといえば、私立大学の受験最中。大原大学も、試験期間中は、入校禁止。

そこで、打ち上げ会は、小久保教授が下北沢のパスタハウスを予約してくださった。

「貸し切り」であった。間口は、そう大きくないが、中は広く感じた。木枠の窓格子、腰長けまでは本物のレンガ、赤
いテント風の雨除け。

偶然にも戦前からの石畳とセメントでできた狭い舗道に面している。

ガス灯風のポーチライトが、レトロを際立たせている。道路に面した立ち上がりには、やせ細ったハーブが植えられてあった。

格子戸の衝立代わりに、ゼラニュームが植わっている。意外に、大衆草のパンジーを美しく仕立てていた。

もちろん、文芸サークルの打ち上げ会は、禁酒・禁煙・食べ放題である。スポンサーは、小久保教授と島崎さんです。

店内も、アンティークな店造り。厚さ十センチ・長さ五メートルくらいの無垢板のカウンターがあった。そのほかに、四人掛けくらいのテーブルが五台ほどあった。

テーブルをすべて付けて、会場が設えてあった。4時から始まった。

「ご苦労様でした、乾杯」と田中先輩が音頭をとった。会議ではないので、和やかにみんなが楽しんだ。

突然、蜂谷先輩が立ち上がった。

「私、木村君の子どもを身ごもっています。木村君には、しばらく休学しもらいます。

子供を生んだら私が働き、木村君は大学に戻り、卒業をしてもらいます。みなさん、私たちを支えてください」と言った。

「おめでとう。木村君、頑張って」と川口先輩が。

突然の出来事に、みんなは驚いく。

次に、長谷川先輩が椅子に座ったまま、話を始めた。

「僕は、音楽を勉強することにします。芸術学部に編入することにしていました。

しかし、編入試験に失敗しました。昨日、御手洗音楽大学から合格通知が来ました。一年生から、やり直します」

これには、裕もびっくり。しかし、先輩が選んだ道、ガンバって欲しいと思う。

「就職をします。僕は、世間に甘えていたと、この活動を通じ知りました。

幸い、第二卒試験で金融関係の仕事が見つかりました」と野口君が力強く言い張った。これまた、裕はびっくり。

さらに、武田さんが笑顔で、次のように語った。

「筑波大学大学院の試験に失敗。でも、大原大学の大学院に合格したので、進学をすることにした。文芸サークルは、続けます」

「なんだか、バラバラになるようようでさびしいね」と川口先輩が言った。
裕もそう思った。

その時、小久保教授が

「まあ、みんな落ち着けよ。
それは、みんなが成長しているといことだ。そうだろう。成長なしには、人間に変化はない。

この一年間で、サークル活動を通じ、しっかりと心を鍛え
たから大丈夫だ。どんなことがあっても、君たちは立派に生きることができる。

さあ、食べたり飲んだりしながら、軽く聞いてくれ。

この1年間で、私は君たちに文芸活動を通じて二つのことを指導してきた。

一つは、本を読んだり聞かせたりする技術である。もう一つは、本に触れる心や触れたあとの心の持ち方を教えてきたつもりです。

言わば、技と心だ。君たちは、輪読会を成功させるために練習を続け、それらをきちんと身につけたではないか。

立派だよ。感動している。

とかく、今の時代はテクニックが重宝される世であるが、なんと言っても心を青年期に鍛えなければ、鍛える機会はなくなります。

結果、「砂上の楼閣」風的人間となり、自己を見失うことになる。

さぁ 食えよ 飲めよ

この仲間と一緒になりたければ、集まればいいだけだ。その時は、私も呼んでください。

それより、また新しい仲間と次の世界をそれぞれ造るが良い。それが成長だ。

今日は、みんなの再出発の記念日とすることを提案する。親方、どうだい?」

「最高の活動のあとの再出発なんて、めったにない。私も大賛成です」

木村先輩が泣いていた。
そして一言、「俺、がんばります」

「さあ、今日は掟破りをしようか。マスター、ドンペリ三本」

小久保教授の配慮で景気づいた。いつもの明るいサークルの雰囲気に戻った。

「俺、がんばります!」といった木村先輩は、真っ先に酔っぱらった。半分以上も入っているドンペリの瓶を倒しこぼした。

先生は怒らなかった。もう二本、追加オーダーした。


二時間が過ぎた。田中先輩が今後の予定の確認をした。

「明後日の個人発表は、山中君です。準備は大丈夫ですか」

「は、はい、熊谷達也著『邂逅の森』について発表します」

「それから『古都』をもう一回読みます」と言った。一同は、拍手をした。


裕の家では、ウメが綻び始めている。花眼を持つウメの木は、言葉では語れないほど、良い香りがする。

そのウメの木に、ウグイスよりも綺麗なメジロがやってくる。スイセンは、天に向かって葉を伸ばしている。

この時季に庭で咲く花は、ビオラとハボタンぐらいである。その景色は、本格的な春を待つ景色にほかならない。

来週、裕は長谷川先輩と食事の約束をした。正栄食堂で、カツ一枚分を乗せたカツカレーを食べる。

昨年5月に、長谷川先輩と知り合って良かったと、裕は思った。

おわり

あとがき


このたび、「青春の絆」を読んでいただき本当にありがとうございます。

私は、かわせみと申します。令和二年四月に還暦を迎えました。趣味はバードウオッチングと読書です。
そんな私が青春小説を書いたのはなぜか。それは、人が成長する中で一番いろいろな事象に巡り合う時期。そして、それらを解決する時期と確信しているからです。

友情、恋、教養、そして社会奉仕など。それらは、先人から習うことではない。自らまた周りの友人などと全身で解決する。
そして、各の人格として陶冶する時期と心得ます。熱くもあり、苦しくもあり、そして甘酸っぱくもあったかと、私は懐古します。


主人公裕は、長谷川先輩に文芸部に誘われた。そこで、彼は大学生活を知る。いろいろな人間関係を構築する。大原大学のDNAも満喫する。

また、厳しかった輪読を通して、人の心のあり方を学ぶ。心のあり方は、小久保教授からの賜りものである。そのすべては、十六章で小久保教授が語った話に他ならない。

庭に梅の新芽出る頃、裕と長谷川先輩は無二の親友となった。裕は、この一年で青春のオムニバスを駆け抜けたのである。


この小説は、無二の親友である平野寛君に捧げます。学生時代から影となり日向となり、彼は私を見守ってくれています。34歳の時に病を背負った私へ、今でもことあるごとに相談にのってくれています。
ほかに、菊田氏・藤村氏・新井氏・佐藤氏・宮田氏にもお世話になっている。ありがとうございます。

この小説をKindleで出版するにあたり、奥田先生・その秘書である秘書ゆう先生にお世話になりました。心から感謝いたします。

令和3年 2月 9日


「青春の絆(リニューアル版)」出版にあたり

今年2月9日に、「青春の絆」を出版しました。私が立てた目標を大きく上回る結果となりました。
初の出版で、名もなき者としては、驚くべき事象でした。とても、感謝をしております。

その感謝とこの「青春の絆(リニューアル版)」を出版できる喜びを合わせ、初版「青春の絆」の収益を含む金2万円を公益財団法人 日本ユニセフ協会へ寄付さていただきます。
(ユニセフより、表記の受託済)

私はユニセフを介し、少しでも子どもたちが豊になるように祈念いたします。皆さん、本当にありがとうございます。


最後になりましたが、今回も格別なご高配をいただきました秘書ゆう先生に、心から感謝いたします。

令和3年8月20日

翡翠(かわせみ)



プロフィール
1,960(昭和35)年、神奈川生まれ
2002(平成14)年自叙伝「卒業二十周年記念樹 ひこばえ」2009(平成21)年エッセイ「私にも夢がある」、小品集「あけぼの草稿」などを執筆。
本年2月、「青春の絆」でKindleデビュー

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