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聞き耳を立てずとも(チベット編)

昨日、パリ入り。現在、パリのアパートが工事中なので、その様子見、建築家との細かい話などが今回の案件だ。何しろものすごい埃とペンキの匂いなので室内でご飯を作って食べる気には到底なれず、その辺で何か適当に、というところで思いついたご近所チベット料理屋さん。

チベット餃子、モモを肴に、ワインをちびちびやっていると、店の奥から話し声が聞こえてきた。私の座っている位置からその顔は見えないけれど、ああ、さっき入ってきた人だな、となんとなく想像がついた。その客が、店の女主人と来たるパリ・オリンピックについて話している。

「この辺り、交通のアクセスはどうなるんですかね」と女主人(以下、マダムの“M”)
「いやぁ、全くわかんないっすね。区役所、何も言わないし、タクシーの運転手も言うことまちまちですし」と客の男性(以下、客clientの"C")
M「どの辺まで交通遮断されちゃうのか、近所の人たちも誰もわからなくて予定が立てられないんですよ」
C「ですよねえ。お客さんは最悪、徒歩でくることも可能でしょうけど、配達の車とか、どうなるんでしょう」
M「もう、最悪、自力で歩いて素材の買い出しに行くしか」
C「何しろ千六百万人が来るってんでしょ。もうとんでもない大混乱、間違いないですよね」

そう、この夏のオリンピックには国外から千六百万人の見物客がやってくるのだ。多くの地元民はその間、パリを脱出すると聞いているが、ご商売の方達は稼ぎどきだろうから離れるわけにもいかない、けれど、交通規制始め、いろいろなことが未知すぎてさぞかし気を揉んでいることだろう、と察しがつく。すでに私の耳はウサギかダンボ状態。顔が見えないだけに、まるでラジオを聞いているようで、逆に集中力も研ぎ澄まされてくる。

しかし、会話の白眉はここから。

C「時に、あなたはフランス生まれ、ですよね???」
M「そうですよ。ここで生まれ、ここで育ちました」
C「ですよね、だってまったくアクセントないですもんね。で、あなたは二世代目になるわけですか?」
M「そうそう。両親がチッベットから逃げてきたのが1959年でした」
C「おお、なんと! チベット蜂起の年ですね」
M「そうです。ダライ・ラマ14世もその年に国外へ亡命しましたね」

Cさんの口から間髪を入れず「チベット蜂起」の一語が放たれた時は思わず私も身を乗り出した。この人、一体、何者???

C「毛沢東がやりたい放題でしたからね。ご両親はじめ、みなさん、筆舌に尽くしがたいご苦労でしたね。実は、私の父がその直後、正確には1961年に北京におりましてね」
M「まあ、そうなんですか? 失礼ながらそれはどういう理由で?」
C「国から派遣されたんですよ。外交案件で」
M「なるほど」
C「で、その時、毛沢東とも会っているんです。ほら」
そう言ってCさん、何かを見せている気配。おそらくは父君と毛沢東とのツーショットか何かだろう、と私は背中で想像する。
M「というとお父様はフランスの外交官でらしたんですね?」
C「いいえ」

そこからのCさんの話を要約すると以下のようになる。

Cさんのお父さんはモロッコからパリのソルボンヌ大学博士課程に留学してきていた。中国語にも堪能だったため当時のモロッコ国王から在北京外交特使に任命されたのが1961年。モロッコは長らくフランス保護領だった(一部はスペイン保護領)が、第二期世界大戦後に独立運動が盛んになり、1955年にフランスの譲歩により独立。戦後の不安定な世界情勢の中、アメリカをはじめとする資本主義ブロック、あるいは中ソの共産主義ブロックのどちらの傘下に入るべきか決めかねているそんな時期に、Cさんのお父さんは国王の命を受け、「中国の様子を探り、毛沢東とのパイプをつくるために」北京に派遣されたのだった。

他方、Mさんの方は、自国民が受けた仕打ちもあり、毛沢東、そしてその後の中国政府に対しても、非常に複雑な感情を持ち続けてきた。Mさんのご両親をはじめ、9万人のチベット人が国外に亡命した1959年以降、在外チベット人が故郷に 一時帰国するのは非常に困難だし、逃亡せずに残った同胞は、軍と警察に監視される暮らしがずっと続いているのだという。

フランス生まれ、フランス育ちのMさんは「けれど、私の母語はチベット語だ」と断言する。家族とはずっとチベット語、そして家族だけでなく、フランス国内はもとより、他国で暮らす亡命チベット人のコミュニティとも、チベット語、そして宗教というよりは生活の哲学としての仏教を通じてつながっているのだ、と。

M「私の両親が迫害されて亡命したあの日から、世界は一向に良くなってないですよね。いつも世界のどこかで、誰かが別の誰かを迫害し、殺戮し、国を追われたたくさんの人が世界をさまよっている。毛沢東の時代は終わったけれど、現政権が毛沢東の時代よりマシになったのは、おそらく経済だけでしょう」
C「本当にそうですね。さっき、父と毛沢東のことをお話ししたのは無神経だったかもしれません。お気を悪くされたらごめんなさい」
M「いえいえ、全然」
 
話がそれなりの着地点にようやくたどり着いたかな、というタイミングを見計らい、私も勘定をお願いしようと席を立った。店の奥に連れの女性と座っていたCさんとも一瞬、目が合った。そうか、この人のお父さんが、私が生まれた年に毛沢東と密談を重ねていたのかあ。。。


チベットの景色を思い浮かべながら飲んだお茶


その晩は、Mさんに勧められてチベットの伝統的なお茶というのを試してみた。
テーブルにお茶を置きざま、「チッベットの丘を思い浮かべて飲んでみてくださいね」とMさん。お茶にバターとミルクを混ぜた「塩味のティー」は、子供の頃に好きだったバタースコッチの味がするような気がした。

空っぽになったティーカップをちょっと嬉しそうに一瞥し、「お口に合いましたか?」とMさん。口に合うも何も、先ほどのお話にずっと聞き耳を立てながらいただいたのだ、口内に広がるバタースコッチの風味は特別なんてもんじゃなかった。馥郁たる塩味の向こうに、茶畑の連なる丘がずっと続いているような気がした。

お勘定をお願いしながら私も少し立ち話。昔、パリに住んでいた頃にこの店に来たことがあったこと。フィガロジャポンか何かにお店の記事載っていたせいで、当時の日本人コミュニティの間ではよく知られた店であったこと。こちらにアパートを買って以来も懐かしくて再訪したこと。今はスイスに住んでいること、などなど。
「え、スイスですか?」と急に身を乗り出すMさん。
「フランス語圏、それともドイツ語圏?」
「ドイツ語圏です」
「あ、だったら私のいとこがね、チューリッヒでチッベット料理屋やってるんですよ」
「え、本当ですか? 私の住まいもチューリッヒです」
「わあ、だったら是非、訪ねてみてください」
そう言ってMさん、いとこさんの店のカードをくださった。ビルメンスドルフ通りとある。ああ、あのへんだな、とだいたい見当がつく。亡命チベット人のネットワークはなるほどインターナショナルだ。

よかったらどなたか、私と一緒にビルメンスドルフのお店にモモを食べに行きませんか?

✳︎冒頭の写真はリヨン駅から乗ったバス車内で撮ったもの。ベビーカーに犬を載せているのは日本だけの珍しい習慣とばかり思っていたら、パリでも遭遇してしまい、飼い主(?)との不思議なミスマッチ感が面白くてついパパラッチしてしまいました。
 
 

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