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葬式仏教は間違いなのか

本を読んでの自分なりの解釈と単なるアウトプットですので気軽に読んでください。

私は寺に生まれ、当たり前のように先祖供養に対してのお布施でご飯を頂いてきたものです。

そんな私の目にはいつもお檀家さんの話を真摯に聞いて、ありがたがられている父(師匠)の背中が写っていました。

現代の僧侶の主な仕事の一つに葬儀をはじめとした先祖供養があることは紛れもない事実です。

そんな私が僧侶としての物心がついて、初めて「葬式仏教」という言葉を耳にしたときはかなりショックであったことを覚えています。

ある一定数の知識人によれば、ブッダは葬儀を僧侶が執り行うことを禁止した。今の日本の僧侶がやっていることは間違いだ。というのです。

自分の中の大きなものを否定された気持ちになったと同時に、日本仏教に対する不信感を覚えました。

不思議というか面白いもので、普段の法要のことや、ノウハウなんかは気軽に師匠に聞けるのに、なぜか怖くて聞けませんでした。

自分の中でもやもやしたものがありながらも、葬儀や法事を務めていました。

そんな時、鈴木隆泰著 『葬式仏教正当論』という本に出逢いました。

今までもやもやしていた心の霧がすっきりするきっかけになった本です。

鈴木老師いわく、インドのカースト制度が大きな鍵を握っているということでした。

もともと仏教は、生まれながらにして身分が決まってしまうカースト制に反対勢力として成り立った背景があります。

僧侶が僧侶の葬儀を行うことは全く問題なかったのですが、事実、僧侶は一般の人の葬儀を行うことはできませんでした。

なぜなら、葬儀は結婚式や成人式と同じ一般社会の通過儀礼だからです。一般社会(=カースト制)に携わらない仏教教団が一般人の葬儀を行う行為は、僧団が一つのカーストになってしまうことを意味していたのです。

つまり、仏教の成り立ちから考えて、当時のインドで一般人の葬儀を行うことは不可能だったのです。

よりよく生きるためのアドバイスや悩み苦しむ人々への救済はクリアできても、一般人の葬儀というニーズにはとうとう応えられませんでした。


だいぶ省きますが、そのことがインド仏教衰退の原因の一つとなったのです。

日本はというと、伝来当初は国の為だけの仏教でありましたが、平安、鎌倉と激動のなか徐々に民衆にも浸透してゆきました。

特に鎌倉時代のは乱世による大量の死者がでました。

死は穢れであり、怖いものとして捉えらえていた当時の民衆にとってその呪術力でもって手厚く供養し、祟りどころか守護の存在にしてくれる仏教がありがたいものであったことは容易に想像できます。

インドでは応えられなかったニーズに見事応えたのです。

以上のことで分かるように、日本の葬式仏教は決して間違いではなく、時代のニーズに応えた結果であることがわかりました。

「何であれ、良く説かれたものは全て釈尊の言葉である」

とブッダは言っています。

仏教は対機説法(人の必要に応じて、臨機応変にアドバイスする)です。

通り一辺倒の教えを説くのではなく、その人に合った的確なアドバイスをすることが大切です。

それは、頭が痛い人に頭痛薬を、おなかが痛い人には腹痛に効く薬を処方することに例えることができます。

とはいえ、日本仏教の課題として、先祖供養以外の布教を疎かにしてきたことは考えなければならない事実です。

そのことを踏まえつつも、今後は自信をもって葬儀に取り組めます。

鈴木老師に感謝申し上げ、今後とも精進辨道いたします。



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