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自分の苦しみさえ自分の言葉で表現できない人間

 たまに鼻水が止まらなくなる。熱や咳は出ないので、おそらく風邪を頻繁に引いているわけではない。気候の変化や寝る時の姿勢、あるいは外泊などで慣れない環境に身を置くと、次の日はティッシュを一日中手放せなくなったりするのだ。一晩寝れば大体すぐ良くなるのだけれど、症状が出ている間はずっと寝起きみたいな集中力しか維持できなくなる。アレルギー性の鼻炎かもしれないし、花粉症かもしれないし、その両方かもしれない。
 僕は音楽をやっていて日常的に歌を歌うので、これは結構深刻な問題である。ちなみにTikTokに投稿しているボーカルカバーには、割と頻繁にコメントで"Nasally"と指摘される。自分ではよく分からないが、僕の歌声はそもそも鼻声っぽく聴こえるらしい。

 おもに花粉症の苦しみの表現として「鼻を外して洗いたい」と言う人がよくいるが、そのようなトリッキーな言い回しがここまで広く普及しているのはちょっと興味深い。害のない軽い冗談なので特に深く考えずに言っているのだろうけれど、それを自分で思いついたかのような顔でナチュラルに使っている人は多い。僕はそれを聞く度に鼻白む。鼻だけに。お分かりの通り、僕はそういう連中とは違うベクトルで何かしらが欠落している。しかし自分の苦しみさえ自分の言葉で表現できない人間が、鼻水が止まらない苦痛を同じレベルで味わっているとはちょっと認めたくない。
 疲れ果てて眠りに落ちた時なんかの一瞬に思える睡眠を表す「瞬きしたら朝だった」という表現にも、似たような違和感を覚える。その感覚自体はよく分かるのだけれど、「一睡もできないまま朝を迎えたと錯覚した」という表現の方が正確な気がする。そこにはある程度の時間経過の感覚と、意志や思考が続いていた気配みたいなものが存在しているからだ。ゆえに充分に休みが取れなかったのではないのかという焦りも含まれる。瞬きという刹那的で綺麗な言葉には、寝る前にあった出来事の重さや疲労の度合いは内包されない。それを踏まえた上であえてドライな表現を好むような人間は、そもそも他人の言葉を我が物顔で使ったりはしないだろう。

 当然、僕も誰かの言葉や表現を盗みながら生きている。僕はライ麦畑のホールデン的な誇張を日常的に使っており、例えば「大丈夫?」「どうだった?」といった具合に誰かに訊ねられると、反射的に「全然無理」「死んでた」ととりあえず答えてしまう。天気はいつも猛暑か大寒波で、何もかもが最高か最悪で、答えはいつも「はい」か「いいえ」の二択である。中間はない。正確にはあるのだけれど、どちらにも振り切れていないうちは何も答えない。どんどん抽象的になってきて自分でも何を言っているのかよく分からない。こんな曖昧な思想が一定量蓄積すると、鼻水になって放出されるのかもしれないし、あるいはゴミみたいな駄文をnoteに綴るのかもしれない。


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