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単調な表現の世界は退屈

かつてユーチューブやツイッター、フェイスブックといったSNSを見るときに、広告に悩まされたことなど一切なかった。新型コロナの流行などもあって利用が進んだせいか、かなり広告の数は増えてきており、嫌でも目に付くようになった。
企業がアカウントを持って発信しているケースも珍しくないため、一見すると普通の投稿なのか広告なのかがよくわからないこともしばしばだ。

こうした広告は男女や年齢によって出し分けがされているものだが、私の場合だと大体「マンガ」か「まともなマッチングアプリ」の広告がよく出る。結婚している私にマッチングアプリの広告が出るということは、広告を出すシステムのほうは私が結婚しているかどうかを判別できていないということでもある。
「浮気のすゝめ」でもしたいのであれば話は別だが、そういううさんくさいマッチングアプリの広告(「退屈な夫婦生活に…」みたいな感じのやつ)は見たことがない。
高度化した広告配信のシステムにあって今なお結婚しているかどうかという簡単な二択も判別できていないのであり、伸びしろはまだまだあるような気もする。

さて、マンガの方は作品の頭出しだけをしていることが多い。気になる続きはアプリで読んでね、といった定番の流れだ。
ただ、見ていると大概同じような流ればかりだ。
最近のマンガのトレンドは「異世界転生」モノである。だいたいは「①しょぼいと思われていた主人公クビを切られるorヒロインの結婚が破談になる②最初のうちはみんな「いなくなってすっきりだぜ」みたいな流れになる③何かピンチになったときに①でクビを切った主人公・ヒロインの実力を思い知る」という感じだ。驚くほどワンパターンなので一体何が楽しいのだろうと思ったのだが、ふとかつてのマンガだってワンパターンだったのではないか、と気づいたのである。

ライトノベルや青少年が読むマンガなど、その多くはラブコメであった。そしてそのパターンは大概「①主人公はこれといったとりえはないが優しい②女性がたくさんいて、主人公が優しくしたりしてなんだかんだ好きになる③最初にあった女の子と主人公がなんだかんだで結ばれる」という流れである。おまけにいうと、大量に出てくる女の子を判別するために髪の毛の色を一人ひとり変えていたりもする。

ワンパターンのものを繰り返し消費して、特定の感情を享受することを喜ぶ面が人間にはあるのだろう。恋愛のドキドキや異世界転生におけるカタルシスみたいなものを、マンガを通じて「食べている」のかもしれない。事業者側もコンテンツを大量に作らねばならないいまにあって、ある種の「型」みたいなものにはめ込んでヒットしうるコンテンツを作った方が合理的なのも事実だし、それを消費者が求めているのであれば作らない理由はない。

かたや、挑戦的で尖ったコンテンツがなくなってしまうのだろうか、という危惧も個人的にはある。現実から自由であるからこそ大概のことは書いても大丈夫というのが表現の世界である。人気取りのために表現の幅のようなものが狭まっていくのは、自由を旨とする表現の世界で、実に退屈なことなのかもしれない。

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