見出し画像

「ポロリ」を哲学する

ときおり、YouTubeなんかで「女性タレント○○のポロリ!」といった品の無いタイトルの映像がある。
私もあきれ返りつつやましい気持ちは一切無いなかで念のため見てみると、どう見ても「ポロリ」はしていない。

こうした事例に触れるたび、「ポロリ」という言葉が間違って使われているように思えてならない。「ちょっとはみ出した/ちょっと出た」ことをなんでもかんでも「ポロリ」と表現している。
以下に触れる本当の意味での「ポロリ」をしていたとすればすぐにYouTubeの検閲にひっかかってしまうわけだが、しかし本来の意味と違うのであれば「ポロリ」という言葉を使うのはふさわしくない。

ならば、「ポロリ」とは何であるのか。
本来「ポロリ」とは、ダイナミズムに満ちたものである。明らかに出ていない状態から、全部が露出したという一連のプロセスが間断なく進んだ状態が「ポロリ」である。いうなれば、そこには「あッ」という驚きや劇的な衝撃があるのであって、日常から非日常への越境というべき現象が起こるのだ。
この定義を、ここでは「狭義のポロリ」と呼ぼう。

昨今の「ポロリ」は、前述したように「ちょっとはみ出した/ちょっと出た」状態を指す。しかしそこに驚きはなく、日常の中で「ポロリ」は完結している。
この定義については、ここでは「広義のポロリ」と呼ぼう。

広義の「ポロリ」であったとしても、見る側の人々は狭義の「ポロリ」を期待するものである。でも毎回、見る側は狭義の「ポロリ」を見るに至らず、裏切られ続けることになる。

何度も同じことを繰り返す中で、いつの日か見る側の人間は「どうせ、今回も見えないのだろう」という諦念を抱きながらも、「次こそは本当に(狭義の)ポロリがあるかもしれない」と思い、何度も「ポロリ」動画のURLをクリックし続ける。
これは(広義の)「ポロリ」を体験することの繰り返しが、まだ見ぬ(狭義の)「ポロリ」への期待値を引き上げ続けている状態といえる。

たとえるならば雲を触りたいと永遠に手を伸ばし続けている少年と同じだ。届かないとわかっていながらも「次こそは届くかもしれない」という未熟な期待を抱き続けている。だからこそ少年は空に手を伸ばすことをやめない。

YouTubeに限らず、雑誌などでも「ポロリ」は使われているが、当然ながら狭義の「ポロリ」はしていない。となると、「ポロリ」の意味は、時代とともに変遷を迎えている可能性もある。
狭義の「ポロリ」は、いまや広義の「ポロリ」に浸食されているのではないか。

仮に、こうした状況が定着していけば、前述したような「次こそは本当に(狭義の)ポロリがあるかもしれない」という期待は、この世界から失われていくことになる。
誰もが「どうせ出ないんでしょ、だって『ポロリ』って書いてあるんだから」という発想しかなくなる。つまりは「ポロリ」という言葉の魔力が失われていくのである。

言葉の意味は多数派による使用状況によって変わるものであり、なかなか人為的に誘導することは難しい。ただ、いまの時代にわざわざ「ポロリ」の意味を、広義のものに収斂させていくことは極めて危険だ。

それは「ポロリ」という言葉そのものにとってもよくないし、人間にとっても良くない。そして何より、「ポロリ」でクリック数を稼いできた企業にとっては、「ポロリ」による「釣り」の終わりを意味する。

それゆえに、今の時代こそ狭義の「ポロリ」に拘泥する、高潔な精神性が求められている。だから、私は「ポロリ」を安直に使う現在の下劣な人間の精神性にけしからんとムチを入れたい。

みだらな欲求をことさらにかき乱すのではなく、より狭義の「ポロリ」に対してのみ「ポロリ」という言葉を使うべきだ。
そこには本来、先ほど申し上げたような「ポロリ」の持つ非日常の衝撃がなくてはならないのである。
誤った使い方で「ポロリ」という言葉の力が減ぜられ、そしていつの日か言葉が死んでいくことは、言葉で仕事をしている身として看過できぬことである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?