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隣の芝より自分の芝のほうがもしかしたら青いのかもしれない

隣の芝は青いとはよくいったもので、どんなに恵まれても人間は自分にないことを求めてしまう。
金持ちの人であれば「時間が欲しい」といってみたり、金がなく時間ばかりあると「金が欲しい」といってみたり、オムライスを食べながらカレーを頼んだ友人を見ると「カレーのほうがうまそうだな…」と思ったりと、人は実に気まぐれで身勝手な欲求を持っている。

私自身も気まぐれかつ身勝手な欲求を持つ人間のひとりである。
いっとき、私自身仕事やらなにやらを猛烈にやっていた時期があったのだが、その際には朦朧としながら「休みてえ…」と思っていたものだ。
しかし、いざ仕事やらなにやらを一通り終え、少し余裕が出てくると「いま、暇なのでは…」と思ってしまうのだ。
いつかは休みたいと思っていたのにも関わらず休んでしばらく経つと、休むことに飽きて何かをしたくなってくるのだ。結局のところ、人間はないものねだりなのである。

ただ、私はそうした人間の在り方が別に悪いとは思わない。いま自分にはないものを求めることは、ある意味で夢を見ることであるともいえるからだ。それ以上に現状を嘆いてああでもないこうでもないと文句を言い続けることのほうが、自分の人生にとっては意味のないことである。

「こんな今だったらいいな」という願いを今の自分に抱くことが前に進むエネルギーとなるのであれば、それは人生の漸進的改善のためにうまく使っていくべきものであろう。

注意せねばならないのは、夢をかなえるのは儚いということだ。一度、夢を叶えてしまえばそれが如何に儚いかを誰もが知るものだが、しかしそれでも人は夢を見て、儚いものを求めてしまう。

隣の芝は青いと思っていざとなりの芝に行ってみたときに、その青さにほんの一瞬喜びを覚えながらも、その喜びは儚く散りゆくものである。そうしてすぐに私たちは「隣の芝は青いな」と羨望の眼差しを向けるのだ。

こんな風に考えてみると、地球は丸いわけだから隣の芝は青いと思い続けて移動を続ければそのうち昔々自分自身がいた芝に戻ってくるわけである。儚さを追い求めたその先にあったのは、実はもともと自分自身が立っていたそこに生えていた芝であり、そしてそれが最も青いのかもしれない。

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