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さくらももこは鬼才である

「ちびまる子ちゃん」で知られるさくらももこさんの作品に出会ったのは中学生の頃であった。
「たいのおかしら」「もものかんずめ」「さるのこしかけ」の三大エッセイをはじめ、さまざまなエッセイ作品に触れたものである。

中学校のときの朝読書の時間は当時の私にとって苦痛以外の何物でもなかった。ただ、さくらももこのエッセイと出会ってからは朝読書はあっという間に過ぎるものとなったのだ。この点、感謝してもしきれない思いがある。

さくらももこは「ちびまる子ちゃん」や数々のエッセイのイメージが強いためか「日常を独特な視点から切り取った作風」に定評があるように思われがちだ。

しかし、実際のところさくらももこは「日常を独特な視点から切り取った作風」を強みにしているかというと、その限りではないと思っている。より正しく言えば、強烈な世界観を持った鬼才であると思うのだ。

その鬼才ぶりをこれでもかというほどに表現してくれているのが「コジコジ」という作品だ。いまはユーチューブで公式のコジコジチャンネルがあるのでぜひ見てもらいたい。

コジコジのキャラクターは謎の生命体ばかりである。そもそも主人公のコジコジも謎の生命体だし、可愛い天使であるルルちゃんの兄の名前が「吾作」というのも理解に苦しむ。なお、余談だが視聴していた当時、私はコジコジのなかでも半魚人(?)の「次郎」というキャラクターが好きであった。
コジコジの世界(メルヘンの国)の街並みを見てもらうと、かなり独創的な世界が描かれているのがわかる。丘に突然デカい象のようなものがあるなどかなり独特だ。日常の中に突然非日常が介在するかのような衝撃が随所にある作品なのである。

こうした表現に触れたとき、私たち一般人は「いやあすげえな」と思っておしまいであることがしばしばなのだが、表現する側のことを考えてみると少し見方が変わってくる。
すなわち、現実に表現されているということは、頭の中にそれ以上に強いイメージが存在しているということの証明でもあるのだ。コジコジの世界観より強烈な映像が、さくらももこの頭の中には確かにあったのである。

表現の世界に生きる端くれとして一つ明確な確信を持っているのは、見えないものは書けないということである。
それは物理的に見えないという意味合いだけではなく、ロジックが見えないとか、選ぶべき言葉が見えないとか、そういう広い意味の「見えない」である。「メルヘン」とは空想的なものという意味合いがあるわけで、さくらももこは「メルヘンの国」という空想をも確かに「見る」才能があったのだ。

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