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なので私は炊き込みご飯を炊いた

なんのこっちゃと言われてもしゃあないタイトルである。

私は今、元気が無い。元々普段から元気いっぱい!というタイプではないが、それにしても元気が無い。元々そこに無い元気が更に無いとなればそれはマイナスなんじゃないかとか、そうはならんやろとか、なんかそういうことばかり考えるのは元気が無いから。どうでもいいことを考え続けることで己をこの世に繋ぎ止めようとしている。知らんけど。

皆さんには元気が無くなるとすることはあるだろうか。願掛けや、ルーティンや、その他諸々の意味合いで。私は何をするかと言えば色々あるが、何を隠そう炊き込みご飯を炊くもその内のひとつである。隠すどころかタイトルに書いちゃってるし。

炊き込みご飯を何故炊くか、そこら辺気になっちゃってる感じですか?アパレル店員のように聞いてみる。人間疲れると突然似非アパレル店員にもなれるのだ。

私が元気を無くすと炊き込みご飯を炊く理由は至ってシンプルだ。炊き込みご飯とは米、任意の具材、調味料で決まる。こう書くと至って簡単な作業に思えるが、その内訳は意外にやることの渋滞である。

まず、炊き込みご飯の具を決める。炊き込みご飯とはものすごい包容力のある食べ物だ。どんなものも米と炊き込めばそれは炊き込みご飯を名乗ることを許される。しかし、この世には食べ合わせというものもある。なので毎回慎重に選ぶ。今日は豚肉、人参、油揚げなどをチョイスした。炊飯器は全てを受け入れた。

次に味付け。白だしに物言わせる時もあれば、醤油やみりんでシックに決めたい時もある。時には焼肉のタレなども駆使していきたいところ。炊飯器は腕を広げて全てを受け止める気満々だ。あんた、たまには少し人間を疑った方がいいよ。誰にそう言われても、炊飯器は待っていてくれる。そこでじっと待っている。

具を選ぶ、味付けを選ぶ、米を入れる、水を入れる、スイッチを押す。あとは炊けるのを待つ。行程を書けば実にシンプルだ。だけど実際はその中に沢山の選択がある、自分次第が詰まっている。人生のようだと思う。

無事に炊き上がった時の安堵、炊飯器にもりもりふっくらのお米からあがる湯気、底からしゃもじでかき混ぜた時に完成する達成感、いざ実食した時の美味しさや不味さのギャンブル。

なんにも出来ないんじゃないか、私にはなにも無いんじゃないか、出来ることはもうなにも残ってないんじゃないのか。私は弱い人間だから、一度弱気のどん底に落ちたらなかなか這い上がれない。すぐに諦めようとする。最早ここまでと思い込む。

そんな時に炊き込みご飯を炊く。全部自分で選んで、決めて、炊飯ボタンを押す。炊飯器は気のいい奴で時間にも正確なので、ちゃんと時間通りに炊き込みご飯を完成させてくれる。ピッピーなどと口笛を吹くように軽快に教えてくれさえする。

マジで感謝、炊飯器。
あいしているよ、象印。

そう言いながら自分家の炊飯器をふと見たら象印全然関係なかった。いくら何でも疲れ過ぎじゃなかろうか。なんにせよそんな感じなので、私は今日炊き込みご飯を炊いた。炊き込みご飯が炊けるまで、あと2分。おいしいといいな。それに、全てが上手い具合に何とかなるといいな。

そこんとこ頼みますよ。
ねぇ、象印さん。



お陰様で晩御飯のおかずが一品増えたり、やりきれない夜にハーゲンダッツを買って食べることが出来ます