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心の犬とボールと私と退職にまつわるあれこれ。

3月、7年間勤めた会社を辞めた。

たかが7年、されど7年。色々なことがあったし、あったのに無かったことにしたことも星の数ほどあった。辞めてからの毎日を暫くぼーっと過ごし、漸く自分の中で片付き始めた感情や思いなんかが各々いい感じの場所に収まり始めたので、これを機に自身の退職についての文章を書こうと思った。

まぁ、退職の理由と言えばシンプルで「そこで働くのが嫌になったから」に尽きるのだが、7年というそこはかとなく長い時間をそこで過ごしたのだからそうもいかない。その一言に全部の感情を仕舞うには、明らかに言葉の箱が小さいのだ。
だから今日はその箱から溢れてしまう分をここに置いていく。

何かを辞めるということについて、例えそれが仕事で無くても人間は大きな決断を強いられるものだ。その大きな決断をする前に、幾つもの葛藤や悩み事を繰り返して心が疲れ、決断までに辿り着けない人も居る。
今回の私の退職という決断もまた、本当は幾つも分岐していたはずの到着点のひとつだったんだろう。辿っていたらたまたま辿り着いたという感覚が強く、未だにこれで良かったのかと思う瞬間がある。けれど、後悔はしていない。不思議な気持ちだ。

月に6回程度の夜勤と、早朝出勤の早番、帰れば20時過ぎで何のやる気も起きない遅番。不規則な勤務を繰り返していれば疲れも蓄積していく。
年中人手不足な手前、常勤の職員の方が少ない。日勤のみ勤務の職員、早番のみ勤務の職員、夜勤だけの職員。その穴を埋めるように常勤として働いていると遅番の次の日に早番があったり、見たこともない数字の連勤が月に数回入ったりした。でも、そこは身体はきつかったけどあまり気にしていなかった。シフト制の仕事とはそういうものだと思うようにしていた。

身体の疲れだけならまだ頑張れたんじゃないかと思う。じゃあどうしてと考えた時、答えは案外あっさりと出た。心が疲れていた。自分の中から取り出して見ることが出来るのなら、私の心は形容し難い歪な形と何色とも呼べない色をしているんだろう。
私は動物が好きで、特に犬が好きなのでいつからか心を犬と捉えるようにしていた。私の中の犬はいつの間にか毛がぼそぼそで、疲れた顔をして隅っこで丸まって過ごすようになってしまった。呼んでも私に近付かなくなり、晴れた日の散歩のように幾つもあったはずの興味や趣味に心が踊らなくなった。限界だと、本当は数年前から気付いていた。

少し立ち止まって考えたいと休職もしたことがあるが、数年以上勤めている場所のことをたかが数ヶ月休んだだけでは何の答えも出せなかった。答えを出すには自分への質問や問い掛けが必要だけど、冷え込む冬に休んでしまったのもあってちっともいい方向に物事を考えられない。キャッチボールよりもドッジボールと表現した方が正しい言葉を自分にぶつけては、日頃からほったらかしにしていた心の中の犬を余計に怯えさせた。
数日ぐっすり眠れば身体の疲れは取れたものの、心にこびりついた疲れはべっとり付着したままそこにあった。
休職を考えている人がもしもいるなら、これだけは言いたい。極端な気温になる時期をなるべく選ばない方がいい。暑すぎても駄目、寒すぎても駄目。自分の中の適温と、適度な日照時間が約束された時期をおすすめする。人間は案外簡単にぽっきり折れてしまうものだから。

結局休職を経てそれでも数年働いたのだが、今回結局退職を選んでいる。その数年のうちに決定的な何かが起きたわけではない。そういうわけではないが辞めることにした。

辞めると決めた日、職場の同僚でもなく直属の上司にでもなく一番に母にLINEした。既読はすぐに着いて、でも打つのが遅いから返事は数分遅れて、一旦テーブルに伏せた私のスマホに届いたのは極短い返信だった。

「オッケーですよ🎶お疲れ様でしたね」

大人になってからそれなりに泣くこともあったが、誰かからの言葉で。それもこんなにも短いメッセージであれだけの涙が出るのを知らなかった。夜勤中に嗚咽をあげて泣いた。あの日の夜、あの時間、コールもセンサーも鳴らなくて良かった。

退職の一番の理由を挙げるのは難しいものの、原因として考えられるものからひとつだけ取り出すとしたらそれはコロナ禍である。コロナ禍に入る前からこの仕事を選んで働いてきたが、コロナ禍以降全てが変わった。続く面会制限・季節のレクの縮小・繰り返すクラスター発生とその対応。挙げ始めたらキリがない。
施設の中で何が起きても、職員の私という部分だけで考えれば日々自分のシフトの中で決められたことをこなすだけだ。だけど、認知症の利用者さんの生活を毎日見守りながらの仕事となればそうもいかなかった。
一度クラスターが起きてしまえば満足に家族さんとの時間も取れず、外出にも行けず、行き場の無いストレスの捌け口は現場に出ている職員しかいなかった。何度も理不尽な言葉や態度に打ちのめされたし、時に暴力さえも受けた。しかし、私が堪えたのはそこではない。

現場と現場以外の人間の考えの違いとはもうどうしようもない部分にせよ、現場以外の人間は解熱し隔離期間が終わり本人が居室から出られるようになればそれで全てが元通りとする。
一方、現場の人間はそうもいかない。発熱中のご本人を見てきたのも、昼夜隔離されているご本人のお世話をしてきたのも、そして解熱後のご本人を今後も見るのは現場なのだから。
10日の隔離も、数日間の高熱も、高齢の方からありとあらゆる元気や気力を奪うにも認知症を進行させるにも充分な時間だった。勿論、元気にいつもの生活に戻る方もいらっしゃる。しかし現場は1人を見ているわけでなく、20人〜30人の要支援・要介護の方々である。自立度の高いたった1人2人を見て「大変だったけど元通りになって良かったね!」と言われることにいつも違和感があった。元通りとは、一体何を指すのか。

在職中数回のクラスターを経験し、一度だけ自分も感染した。私は幸いにも一度の感染で済んだが、同僚達の中には数回感染する人も居た。症状は人それぞれだけど、私が感染した時は40度近い高熱が数日間続きかち割れるような頭痛が続いた。横になって薬が効いて過ぎ去っていくのを待つしかない数日間、私には手元のスマホで誰かと話したりNetflixや Amazonプライムで動画も観れるけど、高熱が出ている中で部屋に隔離されている利用者さんはどれだけ心細いだろうか。そんな今考えてもしょうがないことを考えて泣いたりした。高熱情緒破壊号泣女の一丁あがりである。

クラスターとは収まるまでが本番ではない。寧ろ、収まってからが本番だ。

私のようにまだ体力も筋力もそれなりにある健康な大人であれば数日の寝たきり生活を送っても少し経てば回復が見込めるが、高齢となればそれも難しくなって来る。落ちた筋力と体力、水面下で認知症が進んでいるケースもある。
歩くのが難しくなる方、食事をすることが難しくなる方、ありとあらゆることに意欲を失う方。クラスター以降、緩やかに色々なものを落としていく過程を見るのが辛かった。理不尽な扱いより、言葉より、暴力より。穴が開いた袋からこぼれて行くように、目に見えて元気を失っていく様を見ることが苦しかった。

一月の終わり、数回のクラスターを経て長らく体調不良が続いていた方を一人で夜勤で見ていた時、巡回で訪室するとたまたま目が合った。「おはよう」と久しぶりに声を掛けてくれたのが嬉しくて、私も「おはよう」と言った。ここ数ヶ月のうめき声ではなく、痰絡みが酷いながらに言葉を話している。「ゆっくりでいいから、話を聞くから」と言ってベッドの横に座って数分間、なんでもないような話をした。
数ヶ月前までフロアに自分で歩いて来ていた本人そのものだった。家族の話をして、天気の話をして、コーヒーが飲みたいお砂糖はスプーンで2杯ねと言う。暫く話をした後、満足したように笑ったのが忘れられない。「私が死んだら拝んでくれる?もうちょっと生きるけど」と悪い顔をして差し出してくれた手の骨の硬さと冷たさが忘れられない。

「そうしたらその日はコーヒー淹れてあげる、お砂糖はスプーンで2杯ね」

その週、搬送先の病院でその方は亡くなった。片付けて空っぽになった部屋にお別れのために淹れて持って行ったコーヒーにはサービスでスプーンに3杯のお砂糖を入れた。入れすぎだと怒るだろうか。怒られてもいいからまた会いたい。

看取りのある施設ではなかったから施設で看取ることはなかったけど、そのギリギリまでは施設で見ることが多かった。施設は病院ではないので出来ることが少なく、受診にかかるまでの待ち時間もまた心を削られる思いだった。この仕事を長く続けていると、何となく入院になっても治療して施設に帰って来れるだろう方とそうはいかないかもしれない方が何となく分かるようになってくる。
別にだからと言って本人に言ったりすることなど絶対に無いのだが、一度だけ本人の方から「さようならだね」と言われたことがある。これも夜勤中で、パット交換の準備をしていた時だったので驚いた。入院のことを言っているのだろうかと思ったが、そうじゃないんだろうなというのは私なりに数年ずっと見て来たので分かっていた。「もう決めたの?」と聞いたところ、歳を重ねれば何となく自分でその時が分かるというような内容のことを言った。「暖かい日を選ぶといいよ」と言って首のところまで布団を掛けた。その方もまたその後暫くして入院先で亡くなった。その日は2月の北海道にしては暖かく、雪の降らない穏やかで柔らかな日差しの差す日だった。

認知症とは、さみしさともどかしさがひっきりなしに付き纏う病気だと思う。覚えていたい人を忘れ、抱き締めていたい思い出を忘れ、記憶も思い出も本人の意図しないところで零してしまいやがて見失う。しかし、見失うだけで完全にその人の中から消えてしまうことはないのだと感じるようになったのはこの7年間の成果と言えるだろう。それだけの時間を過ごし、一人一人と会話し、暮らしてきた。

7年間、私は自分に出来ることを探し続けた。結果、間違いだったことも何にもならなかったことも多々あった。だけど、全部が全部無駄だったとは思いたくない。私よりずっとずっと長く生きた人生の去り際、教えてもらったことが沢山ある。私は私の出来ることをやったし、やりきったという実感こそ無いが、きっと今は一度立ち止まって考える時なんだろう。なので退職理由を敢えて挙げるとすれば、「立ち止まって考える時が来たから」になるのかもしれない。

最近は自分の人生にドッジボールにもキャッチボールにもならない、小さいボールを床に転がすようなパスからぎこちなく始めたところだ。私の心在住の犬も、ここ数日漸く呼ぶと反応するようになって来た。ボールを咥えて持って来いなんて我儘は言わないから、時折前足でボールを蹴って唐突な私からの質問に答えてほしいものである。

お陰様で晩御飯のおかずが一品増えたり、やりきれない夜にハーゲンダッツを買って食べることが出来ます