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春なんてものはざっくばらんに区切られた季節のひとつでしかない

匿名メッセージサービスのマシュマロを確認していたら、ふと「卒業式を控えているが、自分は不登校だし出席する自信がない」という子のメッセージが目に留まった。その子曰く、自分は無理しててでも行くべきなんだろうか、それとも休んでもいいんだろうかと悩んでいるとのことだった。若さ故の悩みである。時を同じくして60代中盤に差し掛かった私の同僚は「最近人がバタバタ死にすぎて、葬式が多すぎる」と愚痴を溢しているというのに。式と名のつくものは人を悩ませるように出来ているらしい。

私個人の意見としては私という人間はそもそも式と名のつくもの大体苦手人間なので、気が乗らないなら行かなくてもいいんじゃあないですか派なのだけど、多分この子の悩みというのはそんな一言では済まない複雑に絡み合ったのっぴきならねぇ悩みなんだと思う。だから、私なりの考えを出そうとここ数日考えていた。考えすぎた結果、卒業式に間に合わなかったような気がする。でも、その後もずーっと考えていたから書いちゃう。

大体、春っていう季節が諸悪の根源な気がする。先に言っておくが、私は別に春自体は嫌いじゃない。実際今日なんかもタイムラインで何処かの知らない人がミモザやチューリップを買って花瓶に飾っているのを見掛けたり、何処かも知らぬ公園で梅が咲いている写真を見掛けたりして、北海道の春はまだまだ先だけれど春ってのはいいなぁと思ったりしたのだ。
だから、私がここで言う春とはきっと季節としての春ではなく、概念としての春のことなんだと思う。

春と言われて連想するものを挙げなさいと言われれば、そりゃあ聞かれた全員にそれぞれのイメージってものがあるんだろうけど、何となく春が割り当てられがちな3月4月もそこに割り込んで来がち。
桜、卒業、別れ、入学、入社、新生活、出会い、はじまりといった感じに。
CMなんかも、なんとなくそういうテーマのものが多くなる。何かと頭に「新」が付くあれそれが踊り出てくる。別に、3月や4月になったって通う場所が変わったってなんだって劇的に生まれ変わるわけでもないくせして。

この、やらねば!始まらねば!うおおおっ!!と全員が拳を突き上げ一目散に駆け出してこそなんぼの春で候とばかりの雰囲気に、何となく押されて立ち上がれる人も居るように、逆にやらねばと申されましても…と着席したくなる人が居たって何もおかしくないと私は思う。何故なら私が圧倒的に後者だから。
くれた手紙の中にあった何となくの焦り・不安の正体の主成分は、もしかしたらこれなんじゃないかなぁ。春という概念の裏っ側んとこ。誰かしらが色塗り忘れちゃった部分。表向きはちゃんと春してんのに。

先に結論だけ言ってしまえば卒業式に出るべきか、出ないべきかは、私には決めてあげられないけども。つーか返答が間に合わなかった可能性が高い今日この頃なんだけれども。

かつて、君の不安と心配と涙と同じものを私もかつて握り締めていたことがある。大人は無事に大人になれたから大人はいいぞぉなんて無責任なことを君達子供にほいほいと言うけれど、そうじゃないのを知っている。
そうじゃない、どうして分かってくれない、なんで助けてくれないんだと泣いた朝も昼も夜も私にあったことを私自身が知っている。
だからと言っちゃなんだけど君には、かつての私がそこに座っているんだと思って手紙を書くよ。

君へ

春なんてものは、ざっくばらんに区切られた季節の一つでしかない。

実際の春をよく見てご覧、最近の季節なんてやや夏・ウルトラ夏・突然の冬・ストロング冬でしょう。春なんてものは居ないに等しい。
私は春が好きだし、寒い冬を超えて春らしいなにかをひとつひとつ見つけて喜ぶことは好きだけど、概念に揺さぶられることは苦手、なんか焦るから。マイペースを崩される気がして嫌だから。

別に春だからと言って、周りがウキウキしてるからと言って、絶対的な何かを始めなくていいし、逆に確実に何かを終わらせなくてもいい。そりゃあそうだよ、物事にはタイミングってものがあるんだから。
卒業式に出たって、出なくたって、それもまたタイミング。大縄跳びを跳ぶ時みたいに、出る方に跳ぶか出ない方に跳ぶかその時が来なきゃわからない。わからないからこそ、その不確定要素が余計心配や不安を呼んで来るってわけだ。いっそ縄で鞭打ちにしてやりてぇよなぁ、何もかもをよぉ〜。

大人は大人になっただけあって、個人差あるにせよ結構自由度が高くなる。でも子供って、ゲームで例えるなら解放されているマップが極端に狭い。急に思い立って何処か遠くにふらっとも行けないし、気儘に旅に行くにも色々制限がある。マップを解放するにも、そもそもの条件に大人になることが含まれていてどうにも出来ないことも多い。知りたいのはまずはその大人になるまでに自分は耐えられるか、生きられるかなのに、周りの大人はもう大人になってしまっているから大人になって以降の楽しみしか話さないっつーか話せない。ままならないもんですね。

結局、卒業式には出られたんだろうか。それとも出ない方を選んだんだろうか。どっちにせよ今苦しくないといいなと思ってる。

出られたのならそういうタイミングだったし、出なかったとしてもまたそういうタイミングだった。コツは自分なんかと思わないように徹底的に何かのせいにすること。気圧、星の巡り、妖怪、天気、寒暖差、電線の上に大量にカラスがとまってて不吉だったから何とかっつってね。

最後に、自分にだけ今後も春というものは来ないのかもしれないと思ってそれが怖いんだと言っていたそれに対する返事を添えるよ。
まぁ、私の春への見解ってものが最初に書いた感じなもんだから、まずはもうその時点で相容れないぜ!って感じならばマジごめんでsorryなワケなんだけども。

もしもこの先、君がふと何かに興味を抱いた時。

本屋で読みたい本に出会った時、映画館で是非観たいと感じる映画に出会った時、電車や飛行機に乗ってまでして行ってみたい旅先を見つけた時、無条件で応援したくなるような人生の推しを見つけたような思いを抱いた時、散歩の先でたまたま見つけた先のケーキ屋さんのケーキが美味しくて今度はモンブランも買ってみようと思えた時。

そこに君を感動させ、行動させ、次もと思えるものを見つける時があったのなら。それが紅葉が始まった秋だろうが、大雪警報の出る真冬だろうが、熱中症のニュースばかりが流れる真夏だろうが、それは春と呼ぶにふさわしい。

だからもしもこの先、もしかして春なんじゃないか?と思える日が来たらさ。それが何月でもいいから、何年先でもいいから、君の任意のタイミングで構わないから、春を自覚した時にまた手紙をくれたらとても嬉しいです。

その時はやっぱり何月であろうが、寒かろうが暖かかろうが、公園ででっけえシャボン玉でも飛ばそうよ。そりゃあもう祝砲が如く。君の春とその日を心待ちにしています、ゆっくり来い。またな。

柔らか仕上げのフクダウニーより


お陰様で晩御飯のおかずが一品増えたり、やりきれない夜にハーゲンダッツを買って食べることが出来ます