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あなたが科学を見るとき、科学はあなたを見てはいない

ややお久しぶりです。
前回の〈彼〉の書簡から、少し日が空いてしまいましたね。

だってそうでしょう、まるでドラマの最終回のように盛り上がった後で、私は一体どんな言葉を紡げば良いというのでしょう。

では今回もまた、論点をずらして別の話でお茶を濁しましょう。

「最高の人生」が「選択と失敗に彩られた無二の人生」であるならば、「最高の人生」と「最高の科学」とは究極的には相容れないのではないか?

――という問いについてです。


赤信号を一人で渡って事故に遭うのも個性

生きれば生きるほどに、失敗すれば失敗するほどに、人生は豊かになる。

なぜなら、「結果」というフィードバックを通して人は変わっていくから。そして、「失敗」というのはとりわけ大きな「人を変える力」を持つアウトカムだから。

それが「良いか」「悪いか」という価値判断とは無関係に、「失敗」は私たちの人生において無数の分岐点となる。


「失敗」は、あなたの人生を他の人間と差別化します。

その無数の差別化の総体を、しばしば「個性」とも呼ぶでしょう。


突然ですがここで「科学」の時間です。

科学においては、しばしば統計的な傾向や平均を元に判断が下されます。

あなたが何らかの病気にかかったとして、そこで使われる薬は「過去の多くの人に使ってみて、治療の確率や平均的スコアが最も優れていた薬」でしょう。

その際、「年齢」や「その他の持病」といったメジャーな属性は加味されることがありますが、極端に言えば「非常に個人的な差異」は無視される傾向にあります。

皮肉なことに、「科学が最も理想とする人間」とは「最も無個性な人間」なのです。


「科学」は「個性」が嫌い?

「科学」は常に「何万人もの人を調べて、一貫した傾向を発見しました」というスタイルの「真理」を至上としてきました。

「10人の人を調べて、十人十色であることが分かりました」という結果は、それほど重要な研究とはみなされないのです。


「科学」という営みの、この「無個性志向」は今も進行中です。

有名な心理学や医学の雑誌を覗いてみてください、現在も「格式の高い論文誌」に載る人間の研究は、往々にして千や万といった膨大な数の人間を扱った論文ばかりです。

極めつけには、この「『たくさんの人のデータを集めた論文』をたくさん集めた論文」が一番偉いとされている、という状況があります。


「客観的であるべし」
「再現性を重視すべし」
「主観的要素を排除せよ」
「個別的要素を排除せよ」

このように進歩してきた「科学」は、我々が個人としては最も大事にしているはずの「個性」を、辺境へ追いやってしまったのではないでしょうか?


「一度きりの人生」において、「科学」に「占い」以上の価値があるか

これは、「たとえ1万人のデータから得られた結果が正確に99%の人に効くことを予測しても、自分がその99%に当てはまるか1%に当てはまるかは分からない」という話に留まりません。

「その1万人は1人として【私】ではない」という問題なのです。

どうでしょう。科学が追求する「真理」という価値観が、個性を無視することの危機をここに感じませんか。


ここには二つの危機があります。

一つ目は「科学は私に何をしてくれるか」という問題。

これはおそらく現代に生きる全ての人間にとって切実な問いとなるでしょう。


二つ目は「人々は科学を何と見るか」という問題。

この厄介さについては、〈彼〉が以前に残した記事から引いてくるのが良いでしょう。

我々にとってカルト幹部の評価が低く、ノーベル賞受賞者の評価が高いのは、単に我々がカルトの持つ「虚構」濃度の外側にいて、かつ学問の持つ「虚構」濃度の内側にいるからに過ぎないんだ。

https://note.com/jaya/n/nceed616fccf0

端的に言えば、「科学は【私】にとっての真実をもたらしてはくれない」という認識が広まることは、「科学の虚構濃度」を下げてしまうわけですね。


人々が自分の人生を豊かにせんと足掻き、失敗し、個性的になり、いつしかその個性を自分の中心として見据える。

するとその「豊かで個性的な人生」とは、皮肉にも「科学」から見て「辺境」へと追いやるべき対象となってしまう。


「科学」の優位性が「再現性」と「客観性」に帰される一方で、「占い」にはしばしば「再現性がない」とか「客観性がない」と批判されます。

例えば、「相談者のことをズバリと言い当てる占い」と思われたものが、実は「コールドリーディング」と呼ばれる「相手をよく観察して当たりそうなことをそれらしくいう技術」に過ぎなかった。とか。

例えば、「ピッタリと当てはまっている」ように感じられたことが、実際には「相談者が言ってほしそうにしていることを言っているだけだった」とか。


しかし、ここまでの「科学の欠点」を直視した上で、「科学はオカルトよりも優れている」と断ずることができるでしょうか。

少なくとも、上に挙げたような例においては、占い師は相談者という「一人の個人」をよく観察していることになります。

「『目の前の一人』をよく観察して、普遍性よりも個性にかなった対応をする」ことは、科学論文にはできません。


今日はここまでに致しましょう。

「科学」は「個性」とどう向き合うべきか。

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