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野生のおじいちゃん日記①

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」というかの有名な書き出しがあるが、私の場合は「玄関の古いとびらを開けるとおじいちゃんとであった。」になる。ある朝玄関から外に出ると、見知らぬおじいちゃんがそこにいた。6月の晴れた朝だった。

散歩中のおじいちゃんがたまたまいたとかそういう次元ではない、すでにこの家の敷地内の庭に入り込まれていた。しかも、こちらに声をかけるでもなく、一点を見つめてたたずんでいる。そうか、おそらくこのおじいちゃん、野生なのだ。野生の鹿、野生の猪がいるのだから野生のおじいちゃんがいてもおかしくはないだろう。田舎とはそういうものなのだ。そうやって自分を納得させていた最中、

「ええ自転車やねえ。」

野生のおじいちゃんが喋った。
なるほど、コミュニケーションは可能なようだ。

「はい、自転車ですね。」
パニックのあまりよく分からない返しをしてしまった。
とりあえず、このおじいちゃんがどこの誰なのかを尋ねなければ…

「これは山椒の木やねえ。」
おじいちゃんの興味はすでに自転車から植物へと移っている。

「これは山椒の木ですね。」
だめだ、まったく会話になっていない。こんな中学英語の教科書の例文のような問答をしていては、オウム返ししかできないコミュ障であると認識されてしまう。それはよくない。

「これはさるすべりやねえ。」
この間にもおじいちゃんはさまざまな植物の名前を挙げながら、着実に私の家の庭を前進していた。そして、おじいちゃんの植物知識に適当な相槌を打っている間に、お互いの自己紹介のタイミングを完全に失ってしまった。しかしながら、おじいちゃんの方はまったく意に介していないようである。なるほど、ここは田舎であるため、私の存在はすでに知られていてもおかしくない。田舎での情報の伝わり方は非常に速いのだろう。誰かが引っ越して来たらその情報はすぐに村全体に共有されるのだ。

さて、野生のおじいちゃんはすでに庭の奥にまで入り込んでおり、あちらこちらを入念に眺めている。そろそろ、家の中に入りたいところであるが、どうしたものか。野生のおじいちゃんが庭にいる状態で自分だけ家の中に入るというのも不自然である。野生のおじいちゃんは今や庭の雑草を素手で抜いている。繰り返すが、ここは完全に私の家の敷地内であり、おじいちゃんが抜いているのは私の家の庭の雑草である。

「ありがとうございます。」
とりあえず、感謝を述べつつ、自分より圧倒的に年上の方だけに雑草を抜かせるのは気が引けたため、私も一緒に雑草を抜くこととした。夏に向けて子の雑草を放置していると、成長して大変になってしまう。なぜこのおじいちゃんが勢力的に手伝ってくれるのかは分からないが、雑草を抜くことはよいことである。

「飴、あげるわあ。」
雑草を抜くことに加勢したお礼なのか、初対面の相手への贈り物なのかは分らないが、飴を手に入れた。小さな袋に色の違う二つの立方体が入っている、おじいちゃんかおばあちゃんしか入手経路を知らない例の飴である。いったいどこに行けばこの飴は買えるのか。商品名はキュービィロップというらしい。

15分ほどふたりで庭の雑草を抜いていると、妙な一体感が生まれた。親密になったとは言えないが、最初にあった時よりはお互い親しさを感じているように思える。この流れならいける気がする。

「どちらにお住まいなんですか?」
「向こうの方や。」
一般的には、「向こう」という単語を使う場合は指や視線などで方角を示しながら使うものだと思っていたが、このおじいちゃん、雑草を両手で抜きつつ、雑草を見つめながら答えられたため、向こうが果たしてどちらを指すのか全く分からないままである。しかし追加での質問が阻まれる雰囲気が、確かにそこにはあった。

一定の量の雑草を抜き終わると野生のおじいちゃんはおもむろに立ち上がった。
「ほな、また遊びに来るわあ。」
そういいつつ、僕の手にもうひとつキュービィロップを押し付けて、野生のおじいちゃんは颯爽と去っていった。これはいったい何のイベントだったのだろう。もしかすると、おじいちゃんは草抜きの妖精か何かだったのだろうか。田舎に引っ越してきた若者に、草抜きのチュートリアルを実施するという役割を持つ、山の精霊という可能性もなくはない。そうでなければ、面識のないおじいさんが勝手に庭に入り込んでいて、独断で草を抜き出したということになる。どういった種類のコミュニケーションなのだ、それは。

いずれにしろ、「また遊びに来る」と言っている以上、この野生のおじいちゃんはまた来るのだろう。その時にでも改めて名前と住んでいる場所を聞けばよいか。ようやく入れた家の中で私はそう結論付けた。こうして、私のもとには、あのおじいちゃんがどこの誰なのかという巨大な疑問と、一対のキュービィロップが残った。

・・・次回へ続く。




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