日暮れの電話ボックス
冬至は過ぎたけど、1月は、まだまだ日暮れが早い。
うっかり、午後のお茶の後に(と、きどって書いてみたが、やかんで沸かした”はと麦茶”をあっためるだけである。しかも、レンジでちん。とほほほ。)散歩に出かけようものなら、帰宅途中で、どんどん日が暮れていき、我が家が見える頃には、あたりが暗くなってしまうこともしばしば。
今日も今日とて、
もっと、早くに出発すればよかったなあ
と後悔しながら、心臓やぶりの坂道を、息を整えながら歩く。
坂道をのぼりつめた先に、我が家はある。
家に帰るには、とにかく、坂道をのぼるしかない。
これが、けっこうキツイ。
その坂道ののぼりぐちのところに、電話ボックスがある。
すぐ前には、こども園があり、その隣には小学校もあり、田舎町とはいえ、メインストリートにあたるその坂道。
とはいえ、この公衆電話を利用している人を、見かけることはほとんどない。
随分前に、一度、中学生らしい男の子が、嬉しそうに電話をしている姿を見たことがある。
あの、ちょっと照れたような、にやけた表情からして、好きな子に電話をしてるんやと思われた。
家で電話をかけると、家人に話を聞かれるのが嫌なのか。
あの頃は、まだ、LINEなんてアプリもなかったから、携帯電話の電話料金に影響が出ないように、公衆電話を使っていたんやろうか。
きっと、いくら話しても話したりないやろうから、べらぼうな電話料金の請求からは、逃れられないはず。
つまり、電話料金を払ってくれているであろう親からの大目玉は、逃れられないはず。
しかも、
誰に電話してんねん
てことになり、好きな子の存在がばれることからも、逃れられないはず。
かわいいなあ。
しかし、あれから、随分と年月がたち、小学生でもスマートフォンを持つようになり、LINEのアプリを入れたら、電話料金もかからなくなり、ますます、公衆電話を利用する人は、いないんとちゃうやろか。
ただ、昨今の天災を思うと、公衆電話の存在は、とても心強いものがある。
携帯電話が使えなくても、あの電話ボックスがあるというのは、大きい安心感がある。
高齢の方々が多いこの町なので、きっと、そんな思いを持っている人は、たくさんいるんやないかなあ。
しかし、今日は、珍しく、その電話ボックスの公衆電話を使っている人がいた。
電話ボックスの扉にもたれかかり、頭を抱えるようにして、電話をしている。
すぐそばを歩いて坂道をのぼっていた私は、その表情の険しさに驚く。
日が暮れてしまった後の電話ボックスは、そこだけ、明かりがついているせいで、中の様子が、くっきりと浮かび上がって見える。
電話をしているのは、60代後半と思われる男性。
普段着に、ジャンパーをひっかけている。
電話ボックスの横には、バイクがある。
おそらく、彼が乗ってきたものだろう。
家からではかけられないような、電話の要件なんやろうか。
あの表情からすると、かなり、深刻な内容なのがうかがえるが、それをこんな落ち着かない場所から電話するなんて、よほどの事情があるのやろう。
さすがの私も、それ以上じろじろ見ることはできなかった。
それほどに、彼の表情が苦しそうやったから。
苦悩
という言葉が、一番しっくりくるような表情やった。
私の住む田舎町のメインストリートにある電話ボックスは、災害時だけでなく、私の知らないところで、こうして、何か事情を抱えた人を、こっそり助けてくれてもいるようやわ。
田舎町の秘密を、ひとつ知った感じがした。
彼の苦悩が少しでも和らぎ、家から電話ができるようになってたらいいなあ。
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