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「思い込んでいる」と思い込んでいたつもりがなくて

でも、だから「思い込んではいない」と
思い込んでいたんだろうか

湯船に浸かると、そんな言葉あそびじみた世界が浴室中に広がる。っていうのはちょっとカッコつけ過ぎで、本当は頭の中だけに。

何気なく新聞を読んでいたら、新書大賞発表の記事を見つけた。たまたま同じ日に買った2冊が新書大賞と3位に選出されたらしい。そんな賞があることすら知らなかった。

『おお、ちょっとセンスあるじゃんあたし。でも、あれ、どこにあったっけ?』と探したらテレビの横にあったり、車の助手席にあったり。ガサツにもほどがあるけどあたしはこういう人間で、開くと2冊とも20ページほどしか読んでいない。

本は読むより買う方が好きだけど、ふと気づいたら新書ばかり積んでいる。なんとなく小説はお気に入りの作家さん以外は開拓する勇気が出ないし、自己啓発本はうさんくさいと毛嫌いしている。買う衝動に読むスピードが追いつかずに9割新書の本たちは積み上がってばかり。

それこそ2月は衝動的に何冊かAmazonでポチり。読まれることなく積まれていき、謎の罪悪感が膨らんでいた。そして、3月こそは読む!と謎に意気込んだ。

前置きが長い割にとりとめもないのだが、そういうタイミングで、仕事きっかけで書店の店長を務める方と出会う。ハッとさせられた「読書に正解はない」ということば。

読書だからと言って必ずしも学びを得ないといけないわけではないし、読書している人がそれだけで偉いというわけではないし、読書していないこと自体は決して悪ではない。単に笑ったり現実を忘れたり、仮につまらなくてもそれでいいんだということ。

ただひたすら楽しく自由に本を読むことを、別に悪でもなんでもないと認めてあげる。当たり前のように過ごす日々に、当たり前のように思い込みをしていたことを示してもらった。自分にとって有意義かどうかだけで引いてきた基準線。その線をずらしてみたらこんなにも開放された清々しい気持ちになるということ。

あたしが新書ばかり集めてしまうのは、きっと新書は本のタイトルだけを見て中身まで分かったような気になって、読んでもいないけどなんだか少し賢くなった気がするからだ。小説はタイトルだけで物語の全体像を想像することは難しいし、自己啓発本はやっぱりうさんくさくって薄っぺらで耳(目?)障りに感じてしまう。

楽しさを奪うという点は教育の良くない部分かもしれない。単純に「面白い!」とか「楽しい!」という印象だけでは終わらせてくれない。もちろん、その面白さや楽しさを伝える術を磨くことは大事だ。でも、そのせいで読書というものの魅力を奪ってしまうのであれば元も子もない。これは読書だけにとどまらず、音楽や体育、他にもいろいろな分野に通じるところがあるだろう。

凝り固まった頭でいたことにすら気がついていなかった。ここで気づけて良かったわ。
さぁ、あたしは次にどんな本を衝動的に手に取るだろうか。

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