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約束のない日常

日が沈もうとして太陽が空を真っ赤に染める頃、ふたりは歩道橋からその様子をじっと見つめていた。
ただ、夕日が沈むのをじっと。
「約束をすることをやめようか。」
彼はちらりと彼女のほうを向いて言った。
彼女は、どうして?と彼に訊ねた。
歩道橋は家路に急ぐ人たちで交互していた。
「例えば何か約束をしたとするとね。」
「うん。」
「それを守る義務が生まれるけど」
「うん。」
「見えないところで負担も生まれるんだよ。」
彼女は彼の横顔を見直した。
「だから…。」
彼は額を拳で叩く。彼の考えているときの癖だ。
「約束をした時点で、それを裏切るのが背中合わせだってこと。」
彼は真剣な顔でそう言った。
彼女はまた、もう半分は沈んでいる夕日に目をやる。
「誰かが傷つくのは、いつも約束が破られるとき。」
彼女は彼とこうして並んで夕日を見るのが好きだ。
今までに何度一緒に見ただろう。
彼女がふいに口を開く。
「ねえ、でもさ。」
「うん。」
「約束を、破らなければいいだけじゃない?」
彼女がそういうと、彼はきょとんとしたあとに笑った。
「ずばり、素晴らしい洞察力。」
夕日はもうほとんど沈んで、空は夜になろうとしていた。


夕日は完全に沈んだ。
また明日、同じ夕日が沈む。毎日毎日、同じ夕日が。
ふたりは何も約束なんてしなかった。
ただ偶然に顔を合わすその度にくだらない話題と、ほんの少しの笑顔を見せ合った。

なんてことのない、でも大切だった、約束のない日常。


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