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小説を出し続けるという覚悟(林伸次さんの新作を読んで)

※こちらは林伸次さんの新作「世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。」のゲラ読み企画を受けて書いたものです。
詳細の経緯は以下から↓


私は地方のド田舎で働く20代のOL。

今まで生きてきた中で一度も実家を出たことがなく、土日休みのお堅い仕事をしている。

そもそも人生で一度もバーにも渋谷にも行ったこともなければ、大体東京に行ったのも片手で数えるくらい。

林伸次さんのNoteを購読しているけれど、基本的には別世界の話だと思って、その記事を読んでいる。

しかし、林さんが自作の小説について触れている文章を読むと、ある友人のことを思い出して、少しだけ林さんのことを近くに感じる。

別に友人と林さんが似ている、というわけではないけれど、私の中でのイメージがダブってしまうのだ。

その友人は高校生の時、たまたま読んだ一冊の本がきっかけで小説家を志した。
そして、今から五年ほど前、とある小説大賞を受賞しデビュー。処女作は重版がかかり、二作目も出した。

しかし、編集会議に通る企画を出すことができなかった。

担当の編集者さんとの関係はフェードアウト。今は出版社から細々と数百円の印税が振り込まれるだけだという。

友人は今、全く出版に関係ないについていて、それなり幸せな日常を送っているように見える。
しかし、小説を出版したいという目標を持ち執筆を続けているようだ。新しく書いているという小説の話をこの間も聞いた。

私はそんなあの人と友達でいるけれど、その気持ちは理解できずにいる。

出版できたことで友人の夢はかなったと思う。私だったはそこで満足すると思う。
でも、友人は「商業出版で小説を出し続ける」ということに今でもこだわっている。誰もが文章を発表できる時代に、小説家としてありつづけることになぜこだわるのか。

他人の人生に複雑な思いを抱いてしまうのは、私がいつのまにか小説が嫌いになって、小説が好きと屈託に言える人を眩しく思ってしまったからかもしれない。
いや、しれないではなくて、小説が好きでまっすぐに向き合って夢を語っている友人を僻んでいるのだと思う。私はかつては10万字を超える小説を一作書きあげていたのに、ある時点で小説を書くことをやめてしまった人間だから。

友人のことを尊重しているが、その話に触れると、いつも自分の醜い部分が湧き上がってくる。本当に、どうしようもない。

林さんが自身の小説について書かれた文章を読むと、友人の「小説家である自分にこだわる」姿を思い出す。

バーテンダーとしてもNoteで一定の購読者を持ち文筆家としても成功を収めながら、「小説で大成したい」という夢を公言し、その言葉通り何度も小説を出し続ける林さん。

活躍している人を眩しく見上げる気持ちと、「友人もいつかはあんなふうに活躍するのだろうか」という思いを抱えながら、林さんが小説について言及するときだけ、ちょっとだけ私は後ろめたい気分になっていた。


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そんな勝手な思いを持ちながら、何気なく応募した今回のゲラチェック。

送っていただいた原稿を読んだ。

小説のタイトルは「世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。」

この本は短編集で、様々な人(たまにそれ以外)の様々な生き様が登場し、登場人物の思い思いの考えが述べられる。

詳しいあらすじは、他の人が書くと思うので、この本の魅力を端的に2点まとめてみた。

1つ目は、想像力を刺激するストーリー。

物語の中の登場人物の思考や、選んだ結末は、どれも印象的なものだ。それは、読み手に「あなただったらどうしますか?」と問いかけているように感じる。

抽象的な寓話的とも言えるストーリーは、何かを暗喩しているような印象を与えてくる。

それはショート・ショートという、この小説で用いられた技法のおかげだと思う。
超短編で、1話ずつの情報が厳選されている分、想像力がとても働く。

そして、考えをふくらませる中で、ふと自分に問いかけてしまう。

「自分がもし、登場人物の立場だったら?」「もし、究極の選択を迫られたら?」…

それは、設定が練られているからこそ、用いる言葉を厳選しているからこそ、考えずには得られなくなる。

各々の人生を選び取る様を、何回も見せつけられていくことで、読者は相当な刺激を得ることになると思う。


2つ目、それは文体の良さを十二分に感じれること、だ。

私は、林さんの小説の良さは、柔らかい雰囲気の文体や言葉選びにもあると思っている。

その文体を読むことで、場面を想像する際に、まるで学生時代の楽しかった日々を振り返るような”綺麗な思い出”を頭の中に描いている感覚にいつも陥るのだ。

カズオ・イシグロの「日の名残り」のように実際に”過去を思い出す”ことを主体とした話ならともかく、そういう感覚を覚えることができるような文章というのは、とても珍しいものだと思う。

今回の小説は、どうしてか過去作よりも、その文体の良さを感じることが多かった。

その良さは、林さんの文体がショート・ショートで描くファンタジーという小説と相性が良かったがために引き出された効果なのではないか、と私は分析している。

また、ストーリーの良さだけではなく文体の良さが強い作品であることで、この物語には林さんの持つ個人的なエッセンスがとても色濃く詰まったものになっていると思う。それは「これは林さんが初めて書いた小説だ」と錯覚するくらいの濃さのようにも思う。

小説は読まないけれど、林さん個人に興味を持っているNote購読者でも、非常に楽しんで読めるのではないだろうか。



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原稿を何度か読んでから、一つ気づいたことがある。

それは、作品が林さんが意図した・狙った通りの作品になっていたこと。

Noteで何度か林さんが自作の小説について情報を小出しにされていたと思うが実際に読んでみるとその印象通りの文体や雰囲気になっていた。
恐ろしい完成度の高さである。

それに驚くと同時に、気がついた瞬間、少しだけ林さんと友人のことが理解できた気がした。

”自分が素敵だと思うものを集めて、形にして、それを世の中に示す。それを自分が望んだ手段で”

この小説には、そんな林さんの決意表明が現れている気がしたし、それが林さんと、そしておそらく私の友人が目指していることなんだろうな、と勝手に思ったのだ。

そして同時に、「私が林さんの立場だったら小説を書くことを諦めている」ということも思った。私だったら、作家を目指したことを過去のことにして、まるでなかったかのように扱うだろう。

その自分の目標だとか欲だとかに向き合い続ける、それを実現すると言い続けるには覚悟が必要だ。どれだけ時間がかかっても、諦めないという覚悟が。

林さんのことはすごい方だと思っていたが、再度それを思い知らされた形だ。



そして、「感想を書く人を募集します」という体でゲラチェックの募集がかけられたにも関わらず、私は長らく感想を書くことができなかった。

「いや、感想文を書くってのがゲラチェックに応募する条件だったじゃん? つべこべ言わずに書けよ?」
…全くもってその通りである。選ばれなかった人もいるのだから、言い訳のしようがない。本当に申し訳ございませんでした。

書けない理由はいくつもあったのだが、その中の一つに「”個人的に親しい人が書いた小説を読み、その人が意図した内容を手に取るように理解できる感覚”を得てしまった。」というのがあった。

その感覚を得てしまったせいで、私はしばらく、本の良さを正確に読み取ることができなかった。

それは、先述した商業出版をしたことがある友人の本を読んだ時にも感じた感覚だった。

描写の細かい部分をなぞり、「これは君の好みが反映されているね」となぞるような、好き嫌い、優れているそうでない、そういう部分を全部抜きにして、飛び越えてしまうような判断しかできなくなっていた。

ゲラチェックの応募者に向けたメールの中で、林さんが「この本に人生をかけています」と書いた気持ちも、心の底から理解した気になってしまっていた。
それは、本当は良くないことなのに。

…と、綺麗なかっこいい感じで書いてみたが、結局のところ私は「自分の言葉で感想を書く」ことに対する覚悟がずっと持てていなかったのだ。
自作の小説を書き続ける覚悟さえなかった上に、その自分を認める勇気もなく、さらには自分の言葉の責任を取る覚悟さえ持てていなかったのだ。お恥ずかしながら。

醜いプライドを何やかんやしながら、できない言い訳を積み重ねていた。そして、他の方々の感想Noteがアップされるのを見ながら、とうとう発売日前日までNoteを書くことができなかった、というわけである。

結果、私は自分の妬み僻みをNoteに素直に書くことにした。
ゲラチェック感想文の末席を汚すような内容にはなったが、本気で小説を書いている林さんに報いる内容にするためには、上部だけの言葉で書くことは不誠実でしかないと思った。残念ながら、このNoteが私の限界だ。

だが、今回の林さんの小説は大変素晴らしいものだ。「どの口が言うとる?」とツッコミが入りそうだが、それは是非とも保証させて欲しい。

10/4発売の「世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。」
ぜひ読んでみてください。



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