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短編小説 指を数える(3/5)

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 眠りが途切れたときに、人の気配がまったくしなかったので、薄目を開けた。思ったとおりに誰もいなかったので、ベッドから起き上がった。お客がいないときには、特に眠っている必要はないので、眠るのが苦手な子は、起きて漫画を読んだりケータイをいじったりしているらしい。私は、誰かがそばにいようといまいと、眠りっぱなしだった。
 
 相変わらず、私はお昼過ぎから深夜まで、スリーピング・ビューティーで、眠る仕事をしていた。ここで働いている女の子は何人かいるようだったけど、一度も顔を合わせたことがなかった。受付にいるのはいつもマヤだった。マヤによると、私が休みの土日だけは、アルバイトの女性に交代するということだった。
 
 普段は目が覚めてしまったからといって、眠れなくなることなんてなかった。でもその日はすっかり覚醒してしまっていた。毎日がこんなに眠くなかったら人生はすごく楽しいだろうと思ったけど、まだ、眠る仕事の途中だった。マヤに電話をかけて、今日は予約が入っているかを聞いた。何もなければ早めに帰ってしまおうと思ったからだ。電話口から、本のページをめくるようなかさこそとした音が聞こえて、しばらくしてから、
「今日は小暮さんが予約を入れてないから、ヨリちゃんにはなにも予定がないわ」
 と言った。
 
 小暮さん。
 名前を聞いただけで、今まで曖昧でとりとめもなかった人の輪郭が急激に像を結ぶ。小暮さんというのが、仁丹のにおいのするおじいちゃんに似た人なのだろう。今日は来ていない。小暮さんが来なかったから、私は目を覚ましてしまったのだろうか。
「じゃあ、帰ってもいいですか?」
 なんだかこれ以上眠る気がしない。
「今日は、女の子がヨリちゃんと、あともうひとりしかいなくて、その子は埋まっているのよ。だから、フリーのお客さんのために待機しててもらえると、嬉しいんだけど」
「わかりました」
 帰ってもすることなんてなかった。
「そうだ。お茶しない? 私は携帯を持って出ればいいんだし」
「え? はい。そうします」
 電話を切って受付に行くと、マヤはすでにコートを着て私を待っていた。エレベーターに乗って、一階に降りると、時刻は夕方のようだった。夕暮れの寒さが、私は大好きだ。大して冷たくも寒くもないのに、わざわざ親切に寒いってことを大げさな身振りで教えてくれるお節介な人みたいな風が吹く。私とマヤは、カウンターでアップルパイとカプチーノを買って、丸テーブルに座った。カプチーノには、チョコレートパウダーではなくて、ちゃんとシナモンが振ってあって、シナモンスティックまで添えてあったので、少し嬉しくなった。肉桂(にっき)の香りが好きなのだ。おじいちゃんが私のためによく買っておいてくれた黄金色のご褒美は缶に入ったニッキ飴だった。幸せな記憶はすべておじいちゃんに結びついている。
「ヨリちゃん、どういう人がここに来るのか、知りたくはない?」
 明るいところでマヤをみたのは初めてだった。黒のパンツスーツに黒のシャツを着て、意外に肉感的な体をしている。思っていたよりも歳なのかもしれない。
「え、別に知りたくはないです」
「変わっているわね」
 目を開けても、喋ってもいけないといっておきながら、なぜそんなことを聞くのだろう。
「……私もよく知らないの。ちゃんとした収入があって、身元のしっかりした人だけが会員になれるって聞いてるんだけど、審査は経営者が別のところでしているから、私は予約の電話を受けたり、女の子の管理をしているだけなの。なんだか変よね。この仕事を始めたころには、私もびっくりしたわ。そういう趣味の人がいて、そういう仕事が成り立つなんて。でも、向き不向きがあって、ちゃんと眠れない子はすぐやめてくのよ」
 アップルパイのりんごには、しっかりとした酸味があって、生地はサクサクしてバターの塩味が効いていておいしい。
「ちゃんと眠れない人もいるんですね」
 私がそう言うと、
「ヨリちゃんみたいな人は、珍しいわ」
 と、マヤは笑った。
「小暮さんってどんな人?」
 知りたくないと言っておきながら、そんなことを聞くのも変だな、と思ったけれど、小暮さんという名前を聞いてしまったために、小暮さんのことを何も知らないことが急に気になりだしたので、思い切って聞いてみた。マヤはカップをソーサーに置き、少し考えてから、
「物静かで、お年を召した方よ」
 と言った。思ったとおりだ。突然、頭のなかで、小暮さんの声が聞こえた。低く、しわがれた声で、数を数えている。それから、冷たい手の感触。小暮さんは眠っている私の指を数えている。左手の親指から小指、それが終わると右手、また左手、際限なく私の指を数え続けている。小暮さんがいるときに目を覚ましたことはなかったのに、なぜ突然そんな記憶が降ってくるのか。あるいは、私がおじいちゃんといっしょに眠っていたころのことが、フラッシュバックしてきたのか。マヤの携帯が鳴ったので、私はカップに残ったコーヒーを慌てて飲み干した。
 その日は深夜まで、自分の指を数えて過ごした。指に意識を集中すると、左手の小指の付け根の掌と指の間にある古い傷が痛むような気がする。物心つく前に、手に怪我をしたときの傷らしい。自分の外にあるものばかりでなく、体の部分にも強い興味を持ったことがなかったので、ずっと指を数えていると、それらはなんだか自分のものではないような気がしてくる。

 仕事を終えて、家に帰ると、ユタカがテレビを見ていた。台所の水切り籠にはきれいに洗った茶碗や鍋が積み上げられている。
「今日、早かったんだね」
と言うと、なんとなく落ち着かない様子で携帯のをチェックし始めた。部屋も、普段より綺麗になっている。出かけるときに干していった洗濯物や、脱いだジャージなども、すべて片付けられている。そうか、誰かが遊びに来たんだ。やっと納得した。
「お友達でも来たの?」
「ヨリがいないときに、家に誰が来ようが、関係ないだろ」
それもそうだ。ここはユタカが借りてるアパートなんだし。
「そうよね、変なこと聞いてごめんなさい」
 私はユタカに抱きついて謝った。首筋の辺りに、汗とはちがう、生臭いようなにおいが残っている。女か。隠すことないのに。機嫌が悪いのは隠しごとをしているからなのだろう。
「ヨリは、今の仕事始めてから変わったような気がする。好きな男でもできたのか?」
 私は、変わっていない。変わる、だなんて恐ろしいことは絶対にできないし、したくもない。でも、他人に対して投げつける言葉が、自分の状態そのものというのは、よくあることだ。ユタカに、好きな女ができたのか。
「そんなことないよ」
 嘘じゃない。好きな人なんていない。
「ていうか、最初から俺のこと好きじゃないだろ」
 ユタカのことは嫌いではない。でも、それは、ユタカが私のことが好きだから、そのお返しみたいな気持ちでしかない。ユタカの前の男は、私のそういうところをすごく嫌がっていた。
「わかんない。その?好きっていうの」
 やはり、そろそろユタカのところからは出て行かなければと思う。でも、行くところがない。今のバイトをやめて、また住むところを支給してくれる仕事に就けばいいのだろうけれど、そうしたら、二度と小暮さんに会うことができなくなってしまう。
 小暮さんはどういう人なのだろう? マヤによると、会員は身元のしっかりした人ばかりらしいので、おそらくちゃんとした奥さんも子供も孫もいるような人なのだろう。でも、だとしたらなぜ、眠っている私のところに来るのだろう。
 ユタカは、緑色のフリースを肩にひっかけると、何も言わずにアパートを出て行ってしまった。荷物を持っていったわけではないのだから、すぐに帰ってくるつもりなのだろう。
 昼間からずっと眠り通しだったのに、やはりまた眠くなってきたので、また眠ることにした。小暮さんはどうしているのだろう。一生懸命考えてみたけれど、小暮さんが家族に囲まれて幸せそうにしているところは想像できなかった。小暮さんはどこかでたったひとりで息をひそめて、眠らずにいる。誰かが窓の外で歌を歌っている。小さな声で、私を起こさないように。かごめかごめに似た古い歌だ。
 私は跳ね起きて、カーテンを開ける。誰もいない通りが、オレンジ色の街灯で照らされている。

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