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短篇小説 予告1/10 (猫を狩る8)

この小説は 連作短編の2作目になります。
1作目の『猫を狩る』はこちら

登場人物

早苗(早紀)  W不倫の末に離婚し、化粧品店で美容部員をしながら、高校1年生の娘と、再婚した夫と暮らしている。

葉月 早苗の娘。高校1年生。

直之 早苗の元不倫相手で現在の夫。ファミリーレストランの店長をしていたが、現在はネットビジネスを起業準備中と言いながらほぼ無職。

カズ 葉月の彼氏。

アヤカ 不倫ブログウォッチャー主婦。

マオ 早苗の家の猫

1 
 誰かが窓ガラスを叩いている。その不規則なリズムは、遠慮がちなくせに執拗で、半分覚醒しかけていた早苗を苛立たせる。娘の葉月なのか。こんなに朝早くからベランダでいったい何をしているのだろう。葉月のすることなすことすべてが、早苗を苛立たせる。
 ノックの音の合間に、ガラスの向こうから、軋むような音が聞こえる。耳を澄ませると、ぼやけていたレンズの焦点がぴたりと合うように、すとんと覚醒した。ガラスを叩いていたのは飼い猫のマオだ。早苗は布団から体を起こしカーテンの裾に手を突っ込んで、手探りでクレッセント錠を回し、ベランダに通じる窓を細めに開けた。今日の仕事は遅番なので、まだ起きる気にはならない。再び布団の上に体を横たえた。
 ここのところ、マオは怪我をして帰ってくることが多いので、今日はマオに何も起こっていないか、心配になる。ひと月ほど前に、マオは肉球をすっぱりと切られて帰ってきた。他の猫とケンカでもしたのだろうと、それほど気にも留めなかった。ただ、噛み付かれたり、引っかかれたような傷ではなく鋭利な刃物ですっぱりと切ったような傷だったのが気になった。夫の直之に獣医のところに連れて行くようには頼んでおいたけれど、月末の仕事の忙しいときだったので、それきり忘れていた。当然、獣医のところには連れて行ってもらっていない。その朝も、直之は、寝室にいなかった。隣の布団は、敷いたときのまま乱れてもいない。神経をとがらせて、耳を澄ますと、携帯ゲーム機の電子音が聞こえてくる。起きているようだ。3DKの古い団地の陽の当たらない四畳半が直之の住処となっている。直之は仕事をしていない。結婚前に働いていたファミリーレストランは、ITビジネスを起業するという理由でとっくにやめてしまっていた。マンションの四畳半は直之のオフィスとなっている。直之が運営しているサイトはいくつもあって、それぞれにアフィリエイト広告がやたらと貼り付けてあることは知っているけれど、その収入など数百円程度にしかならない。もちろん生活費をもらったことなど一度もなく、早苗が前の夫からの慰謝料で買った築四十年の団地に三人で住み、早苗の収入で生活している。
 
 マオが早苗の枕元で、甘えるような声を出す。マオは一歳八ヶ月になるオスの雉猫だ。ここに移り住むときに里親サイトを介してもらった猫だった。マンションの一階に住んでいるのをいいことに、家の出入りは自由にさせているので、男の子らしくやんちゃな猫に育った。猫といえども、男の子はいい。なぜ、男の子を産むことができなかったのだろう。女の子は生意気なくせに、弱くて、恨みがましくて、情が薄い。あの意地悪な姑には、男の子を産めなかったのは、早苗のせいだとことあるごとに責め立てられた。二人目の子どもは出生前診断を受けさせられ、性別がわかった時点で中絶させられた。以来、絶対に妊娠したくないと思い、ピルの服用を始めた。といっても夫婦仲は冷え切っていて、その必要もなかった。
 離婚を切り出されたときには、愛人を妊娠させていた。愛人は姑のところお花を習っている生徒だった。家督を継ぐなどといった旧い考えに捉われ、男子を産めない女に価値はなく、本家の嫁が男を産まなければ妾に産ませるなどいう時代錯誤な姑からすれば、ひとり息子に自分の生徒をあてがうことなど造作もなかったに違いない。なけなしの慰謝料とともに、家を追い出された。娘の葉月は前夫が引き取りたがっていた。絶対に渡すものかと思った。葉月には事情を悟られまいと詳しいことは話さずにいたけれど、噂は否応なしに葉月の耳にも入ってくる。結婚していながら他の女を妊娠させた父親を許すことができなかったのだろう。葉月は早苗が引き取った。
 揉め事が起こり始めてから、アルバイト先のファミリーレストランで店長をしていた直之と親しくなった。店長といっても、長くアルバイトをしているというだけで、社員ではなかった。早苗の話を黙って聞いてくれて、指図めいたことを言わない直之に惹かれるようになった。初婚にもかかわらず、別れたら結婚しようと言ってくれたし、中学生にもなる娘がいるということにも嫌な顔ひとつしなかった。今になってみれば、居候がひとり増えたぐらいにしか思えない。
 マオが拗ねたような声で鳴き続けている。お腹がすいたのだろうか。マオにえさをやるのは葉月の役目なので、葉月が起きてくる時間より前に、早苗にえさをねだりに来ることは珍しい。あまりにうるさいので、目を開けた。前足を揃え、背中を丸めたマオが澄ました顔で早苗の枕元に座っている。揃えられた足元には、血を滴らせ、腹の辺りから赤黒い内臓をはみ出させたネズミが置かれていた。
 
「あんたが、マオにちゃんと餌をやらないからでしょ。もう、気持ち悪いったらありゃしない」
 葉月は、感情の全くこもっていない三白眼で早苗を注視する。最近の葉月は、十代のころの早苗にそっくりになってきた。まだ子どものくせに、瞳には場末の女みたいな安っぽい色気があって、頬にかかる茶色く染めた髪を鬱陶しそうにかきあげると、気分が悪くなるような強いシャンプーの匂いがキッチンに広がる。面倒なことは何一つ考えたくなくて、鏡に映った自分が可愛らしく見えるか、不細工に見えるか、すれ違う男子高校生がどんな目で自分を見ているか、髪が痛んでいないか、スカートの長さは脚を短く見せていないか、アイプチで無理矢理二重にしたまぶたが奥二重にもどってしまっていないか、そんなことしか考えていなかった。
「餌をやりすぎるから、サカリがつくんだって言ったのママじゃない」
 そんなことを言ったかどうか、よく覚えていない。最近の葉月は、なんだかんだと屁理屈をこねて、早苗に立てつくようになった。なので、言葉を喋らないマオが可愛く見えてしかたがない。浴室でガタガタと音を立てていた洗濯機が止まり、プラスティックのボトルが軽薄な音をさせながら、リノリウムの床に落ちる。今朝、ネズミの血がついたシーツを剥がして、洗濯機に入れた。洗面台の上に所狭しと並んでいる安っぽい化粧品や整髪料はすべて葉月のものだ。棚に収まりきらないボトルがいつも洗濯機の上に置きっぱなしになっている。脱水を終え、すすぎのサイクルに戻ったのか、洗濯層に水が注ぎ込まれる音が聞こえてくる。
「洗濯機の蓋の上にものを置かないでって、何度言ったらわかるのよ。今度やったら捨てるわよ」
 葉月はトーストが半分ほどとサラダが残った皿から顔を上げると、半分しかない眉の下の三白眼を早苗に向けた。こんな狭くて汚い家になんか住みたくない、とまた言われると思ったら、何も言わずに、ダイニングテーブルから立ち上がる。パパとおばあちゃんのところに行ったらよかったんじゃない、と、早苗は何度も繰り返した売り言葉に対する買い言葉を飲み込んだ。
「残すの」
「もう食べたくない」
「食べ物は、誰が稼いだお金で買ってるのよ」
「じゃあ朝ごはんなんていらない。夕飯も自分で買うからいい」
「食べたくないってどういうことよ」
 妊娠でもしてるんじゃない、と、言いそうになって言葉を飲み込む。前夫と結婚したのは、葉月を妊娠してしまったからだった。避妊には気をつけていたはずなのに、おそらく妊娠しやすい体質なのだろう。前夫は早苗が美容部員として派遣されていた薬局の薬剤師だった。配属されるまえに、先輩の美容部員の間ではあそこの薬剤師には気をつけろといわれていた。のんびりしたいかにもお坊ちゃん風の物腰をしていながら、手だけは早いのだ。値踏みをしているうちに早苗にも声がかかったので、遊んでやるつもりだった。妊娠したのは計算外で、結婚することになったのは、誤算だった。早苗より一回り歳が上だったけれど、収入も学歴も外見も申し分なかった。ただ、鼻持ちならない姑が付いてきた。前夫自身も甘やかされ放題に育った女癖の悪い鼻持ちならない男だと気づくまでにたいした時間はかからなかった。

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