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人生は続く、仕事も続く

「てんさんの今まで、けっこう濃かったなあ」
 職場の飲み会で誰かが言った。汗をかいたグラスに並々と注がれたハイボールが減らなくなるころあい、冷めてかたくなった唐揚げをつつきながら、そうですねえと上の空で相槌を打つ。

 3月末、スギ花粉の飛来と同時にどうしても過去を振り返りたくなる季節。説教じみたことを言いたくなるのをぐっと抑えて、自分の社会人人生をたどってみることにする。

 確かに、この6年間は波乱万丈だった。
 右も左もわからない新入社員時代から、少しだけ仕事ができるようになって天狗になっていた2年目、ぽきっと心が折れて心療内科に通いながら泣いていた3年目、はじめての部下ができた4年目……そのあとの記憶はなくて次の春で7年目となる。
 気付けば管理職になり、部下の数がぐんと増えた。名前と顔を一致させるのに必死だ。

 最近よく思うのは、サラリーマン人生というのは長距離マラソンだということだ。42.195kmをゆうに超える距離を走るには、500m走と同じ走り方をしていては体がもたない。

 1〜2年目のころのわたしは500m走どころか、遅刻間際にダッシュをキメる時並の速さで駆け抜けていたように思う。必死だった。仕事だけが自分の取り柄だったし、周りに負けたくない思いも人一倍にあった。
 同期より優秀じゃないと認めてもらえない、必要とされなくなれば終わりだとかたくなに信じていた。
 自己肯定感の低さからくる呪いのようなその焦りは、自分の心身を少しずつ蝕んでいく。

 3年目、コロナ禍も相まってわたしの心は一度ぽっきりと折れた。人間関係などいろいろと要因はあったのだが、毎日のように「死にたい」と泣いているのはさすがにつらかった。
 当時住んでいたマンションのベランダから、真下の駐車場を眺めてはぐちゃぐちゃに飛び散る自分の姿を想像して、でもその一歩の勇気が出せずにただ泣くだけの毎日。

 当たり前だがこの状況で仕事が手につくはずもなく、周囲にはバレていなかったようだが、実際問題かなり業務を疎かにしていたと思う。
 心療内科を受診して、服薬して、「死にたい」から「会社辞めたい」に気持ちが変わりいつしか「とりあえず美味しいものが食べたい」くらいにまで落ち着いた。

 その頃に、ようやく気づいたのだ。わたしはマラソンを走っている最中なのだと。
 そして、自分の走っているタイムは別に世界最速でもなんでもないので、そこまで気負う必要もないのだということも。

 がむしゃらに走り続けている時は周りが見えていなくて、それこそ自分の仕事にある程度の自負もあったので、「わたしめっちゃ仕事できるじゃん」と「わたしこんなのもできないんだ」の両極端を行ったり来たりしていた。
 そんな状態が続けば、そりゃあメンタルやられるってな。

 だが、一度戦線を離脱しかけたことにより、ちょっとだけ自分のことを俯瞰して見られるようになった。
 自分のちからで成し遂げられる仕事なんてたかが知れていて、わたしはわたしが思うほど優れた成果を残したわけでもなく、いい意味でわたしができる仕事は他の誰にでもできるものだ。
 そう気づいてからは、すこし肩の荷を下ろせたのかもしれない。

 それから、まわりの人に助けを求めてもいいんだ、ということにも気づいた。
 いや、正しく表現すると、その方法を元から知ってはいたのだけど、実践するだけの勇気が持てていなかった。できません、つらいです、くるしいです、助けてください。それがなかなか言えなかった。

 きちんと助けを求められるようになったのはつい最近のことかもしれない。
 今年に入ってからも、恥ずかしい話ではあるが、会社で2回大号泣している。1回は悔しさと怒りを爆発させて泣いた。2回目は信頼しているひとに優しく説き伏せられて、いろいろな感情がごちゃまぜになったよくわからない涙を流した。

 以前に日記を書いた通り、こんな会社辞めてやる! と息まいていたが、わたしの涙にうろたえたらしい上層部の人たちがわたわたと気を遣い、数回の話し合いを経て、しばらくの間は続投でと回答をした。

「てんは、俺の娘によう似とるんよ」
 いつだったかそう言われた。
 驚くわたしに、少し照れくさそうに笑うそのひとは、わたしが何も知らないひよっこだったころからずっと面倒を見てくれている父のような存在のひとだった。
「だから心配になるんやろなあ」
 言った本人はアルコールが抜けるのと同時に記憶を喪失しているのだろうけれど、その言葉はわたしの心に確実に届いた。

 会社員をやっていてよかったこと、そう言われていちばんに思いつくのは、こういった人たちと出逢えたということだ。

 切磋琢磨して時には喧嘩したりしながらも背中を預けられる同僚だったり、生まれて初めて心の底から尊敬できると思えた大人だったり、こんな何の取り柄もない自分に働く意味を持たせてくれた部下や後輩たちだったり。

 もちろん、年だけ取って何もできないくせに偉そうにアドバイス(いや、「クソバイス」かも)をするだけして責任も取らないようなザ・使えないオッサンにも何人も遭遇して、そのたびにわたしの血中アルコール濃度が上がっていくのであるが、それはそれとして。
 愛すべきひとたちと出逢えたことは、ほんとうに良かったと思う。

 冒頭に説教くさいことは書かないと宣言したのであまり多くは語らないが、会社はあくまで仕事をしに行く場だから無理してコミュニケーションを取る必要はないという言説がネット上で蔓延している。
 一理あるかもしれない。飲みニケーションと揶揄されるのもわからなくもない。

 でも、実際会社なんて人と人の集まりなのだから、人間関係を円滑にしておくに越したことはない。
 6年間のサラリーマン人生で、唯一わたしが頑張ったことと言えば、多分この人間関係の構築なんだろうな。結果、それがどれだけわたしの人生を豊かにしたか。

 仕事でへまをやらかしたとき、プライベートで嫌なことがあったとき、わたしの泣きそうな顔を見て「飲みに行くぞ」と声をかけてくれる人ができたのは、1年目のわたしが頑張っていた結果なのだろう。

 人生は続く。
 そして人生が続く限りは仕事も続く。

 しばらくはサラリーマンを続けていくつもりだけれど、この先の人生で会社員をやめることがあったとしても、この経験はきっと糧になるのだろうな。

 いまは違う会社へ行ってしまったひとたちも含めて、社会人としてのわたしを育ててくれたひとたちに愛と感謝を。
 そしていつか、わたしも誰かのそういう存在になれるまで。

さあ がんばろうぜ!
負けるなよ そうさオマエがいつかくれた優しさが
今でも宝物
でっかく生きようぜ!
オマエは今日もどこかで不器用に
この日々ときっと戦っていることだろう

俺たちの明日 / エレファントカシマシ

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