人間、そのそれぞれの考えについてのつぶやき集【2019年1月の固定ノート】

世の中には、家族の中にさえ、いろんな事情の人がいてる。そして考え方や行動はさまざまだ。不思議でもないそんなことをわたしは今さら受けとめている。

人々は、共通の敵でもこしらえて一丸とならない限り、「一緒に」も「寄り添って」も不可能ではないか。だから一瞬でも「集う」理由ができたとき、人は酔うのかもしれない。
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「みんなちがって、みんないい」というのが一昔前に流行ったけれど。わたしはこれに否定的だった。そして、そんなわたしをも「それでいい」と思ってくれるのか知りたかった。わたしは今、「みんなちがう」ことに疲れ果てている。この言葉が、日本社会の同調圧力への警句だと思えばおおらかでいられる。
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赤系とはなじまない件。10年前、戦争と平和の領域の勉強のためには西日本に行かなきゃだめと一瞬は思ったけれど、絶対にいじめられると直観した。
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どんな人も、考えたり感じたりするのは、自分の頭を通してである。だから自分が「考えうる」様式で、自分の「考えたい」ように考える。そのため人の言動や考え方が理解できない、といったことも起こる。この多様性を知らない人に教えて回るには膨大な体力が要るのであり、対立は避けられず、わたしはあきらめる方を選んでしまう。

つまり、何を考えても感じても、わたしのフィルターを通っているのだから、すべてがそれなりに歪められている。わたしが何らかの価値を持っていればいいのだが、そうではない。だからわたしが何を考えても感じても無駄である。自己肯定感がなくなってからはその思いが強い。
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好きを仕事にする大人塾=かさこ塾塾長・メッセージソングライター・キャリア教育講演家かさこブログ

わたしは不参加表明に好意を持っているので、少数派なのだろう。無言スルーの方が憎いと言ってもいい。

呼びかけへの断りの表明といったコミュニケーション1つにも人の考えが出るのであり、相手を不快にする可能性があることを知った。そして決めつけも危険。また、良かれと思ってする行為をして、人をバカだバカだと見下すのは不快だから、この記事からは3つのことを学んだ。

・不参加表明などの行為1つにも受け取られ方は複数ある
・「想像力が足りないんだよ」と人に注意する当の本人は、自身の想像力を過分に見積もっている
・人をバカ呼ばわりするのは感心できない
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わたしは、悪いと思ったときしか謝らない。むやみに詫びない。そして、そういう人が好きだ。

謝るポーズが求められたときに下手に出る人は信用ならない。わたしは、本心をいつわった言葉を発する人が蜘蛛ほど嫌いだ。

それでも、連中には謝らなければならない立場がある。彼[女]らの応対は強みで、確立された方法なのだろう。こちらはその行動の論理を認めてやるほとけ心を出す方が、解決を求め、折りあうのには近道だと心得たい。
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【このページは、2019年1月の固定ノートでした】

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