「知性の磨き方」感想

(以前書いた感想2編をマージ、修正+加筆したものです)
「知性の磨き方」第二日感想|よしえし(10rakluck) (note.com)
「知性の磨き方」第一日感想|よしえし(10rakluck) (note.com)

はじめに

「学問・読書・遊びの「方法」を愉快に語る」という触れ込みが面白そうで手に取ってみました。
読書論に関連した書籍を少しずつ読んでいましたが、もっとフランクな内容のものが欲しいと感じたのでよさげな本という第一印象でした。
なので、真ん中の「第2日 読書の幸福」から読む…というかこの章だけ読むぐらいでいいか、と思っていたのですが、それからグッと引き込まれる内容だったので結局読破してしまいました。
まずはそんな本書の「第2日 読書の幸福」についての感想からスタートです。



第2日「読書の幸福」

読書のきっかけを待つ

「時間があれば本読みたいんだけどね~」と人はよく言う。

本章では、内的動機が生まれて自分で本を手にして読む『そのときを待つべき』とし、自発的な読書に期待をしている。
これは課題図書とか読書感想文といったものを用意する教育への批判でもあるが、なかなか本を手に取れない(かつての私もそう)人に対する助言でもあるだろう。

またそうした読書をしようとする人に対して、読書に熱を持っている人はついついおすすめの本をどんどん教えたりしてしまうが、自分自身で「探す」ことで手にした本でなければほんとうに面白い本には行き当らないという。

本書では朗読などのアプローチを用いて読書への関心を引き寄せている手法も紹介されている。また書籍をおすすめ行為について、自発的に「勝手に読ませる」ことや、薦めた後の反応を伺うことは避けることを推奨している。ダニエル・ペナックの『奔放な読書』を引用して、以下のように述べている。

それから最後の締めくくりにはね、「私に本を読む気を起こさせてくれた数少ない大人は、それらの本の優越性を認めて身をひき、本を読んで私が何を理解したかを質問しないように十分気をつけてくれた。もちろん、彼らに私は自分が読んだ本のことを話したものだ。今も健在な、あるいはすでに亡くなったそれらの人々に、この本を捧げる。」
これは名言です。

「国語教師たちの罪」

「古今の名著」をすすめた際に、すすめた人(自分)の話を聞くなんかよりもその本自体を読み進めたほうがウンと良い経験になるはずなので、よけいな解説やらフィードバックやらを急かすことはしないほうがよい。
読書感想文もアウトプットとしては大事な活動だけれど、それを強要してひねり出す行為になってしまうと真に自発的にはならないということだ。
やはり、人への押しつけはダメというわけだ。

一方で、ある人が読書したいと一念発起したときに、読書できるような環境を維持したり、おすすめできるような土台を個人が持っていたりすることは必要なことなのだと思った。
けっきょく人は、人知れず、本を読みたいと思う瞬間が来るのかもしれない。そうしたときに、まわりに読書する場所や、アプローチを提案してくれる機関とか知人がいることが幸福なのだと思う。

現代人の活字離れ

(本書のこの内容は、1996年ごろの話題です)
「現代人の活字離れ」が世間で嘆かれているものの、それはウソであるという指摘をしている。
読まれる本や情報は変遷しており相も変わらず活字は読まれ続けていることが第一の主張。
また、「活字離れ」の比較先が「高等教育を多くの人が受けるようになった」前なのでは?とも指摘している。教育が普及して多くの人が高校・大学へ進学できるようになったことが重要なファクターなのではとしている。

だから、多くの人は大学という枠だけ見て、「いまの大学生は本を読まなくなった」というようなことをいうけれど、そうじゃないんです、事実は。私がいいたいのは「本を読まないような人たちでも大学へ行くようになったということを喜ばなきゃいかん」ということなんです。これは皮肉でも何でもなく。

「知的エリート層の変遷」

また、そのような人たちが増えてきたからこそ、大学がカルチャーセンターになっていないかという懸念を、「第1日 学問の愉しみ」では主張しているのだろう(後述)。

現代ではさらに活字とは異なるエンタメが増えているため、真に「活字離れ」しているかは、また調べないとわからない。
教育自体は普及している。だがコロナなど社会情勢によるの教育環境の悪化を考えると、実際問題現代の「活字離れ」は進んでいるのかもしれない。
こうした世間の動向は気になってしまうが、結局読書というのは自発的な活動なので、自分自身が読書するのと、ちょっと読書が気になっている知人をサポートしてあげるぐらいの考えでいいのかもしれないなと思っている。


第1日「学問の愉しみ」

学問の「方法」を学ぶ

多芸とも評される著者にとって、自身に身についているのは専門分野の知識だけでなく「学問の方法」がある、と述べている。
様々な活動をするにあたっても、それは各分野に対して「学問の方法」を応用させているから成立しているとのことだ。
ひとつのことを専門として学ぶとして、専門知識そのものは他の分野ではまったく通用しないとしても、そのための道筋や要領を応用すれば十分対応ができるというわけだ。そのため、「ひとつのことしか知らないから、他の分野は知らない」と切り捨てることは実にもったいないということだ。
正直、すべての分野には適用できないとは思うが、世の中案外気合入れればできることは多いという意味ではそうだと思う。

パワポケ7の任月カケルも近いことを言っていたな…と思った。
任月カケルの場合は苦労とか忍耐とかネガティブを抱えて乗り越えることができるとしているが、本書での捉え方はもう少しポジティブに、学ぶことで得られること、応用できることといった知的活動の広がりを伝えたいのだと思う。

大学の「カルチャーセンター」化

学問の府としての大学のあるべき姿

異なる観点ではあるが、「学問の府」としての大学を、上記では以下のように述べている。

学問の府としての大学数育とは教科書で教えるものではなく,基礎研究に打ち込んできた者がその経験と迫力をもって講義をし,研究の実践を通しておこなうべきものであり研究業績とは切り離せない。この視点が現在の教育科学評論に欠けて いる。

学問の府としての大学のあるべき姿

本書でも「ちょっと教養を身につけようと、カルチャーセンターに通うようなつもりで大学に行く人だっておびただしくいる」として、大学がカルチャーセンターのようになっていないかと懸念を示している。
「学問はそんな薄っぺらなものではない」とも主張しており、上述にもあるとおり先人の教授、先生の経験やノウハウから学んで実践をする場であるとのことだ。

私の大学生活においても、正直大学というものをカルチャーセンターのように利用していたのかな…と思ってしまった。
学問やサークル、私生活すべてを含めた学生生活ではあると思うのでまったくの無駄ではないものの、大学で先に学んでいる人から経験やノウハウを吸収するせっかくの機会を逃していると考えると、やはりもったいないと感じてしまう。
大学に限らず、あらゆるサービスは100%フルに利用することはできないので、極論にも行きついてしまいそうだが。

こういうことを知ってから大学受験したかったな~と思いつつ、後悔するよりもまず今読書なり勉強なり進めるべきかなとも思うのだった。
なお、いまから勉強するぞ!と奮起したときに、学生時代と比べて記憶の仕方も変わってきており、勉強のアプローチも変化は必要だろう。なので、必ずしも大学で得た方法一辺倒にはならないだろう。
ここらへんは『すごい脳の使い方』から学んで、安心とか自信を抱いた箇所でもある。


第3日「遊びは創造」

オンとオフの二元論

仕事=オン、遊び=オフというように、時間を切り分ける慣行がある。
(オタクが使う「オフ会」は、オフラインミーティングの意味なので異なる)
こうした二元論に疑いを持ち、日々二者を混ざりあわせた「渾然一体」の状態で過ごすべきで、また「真の余暇」とは本当に何もしないことであってこの「余暇」に勉強やら読書を入れないほうがよいということだ。
つまり、活動しているときは仕事でも遊びでも「オン」と考えるべきというわけだ。

これは、平日の仕事終わりの時間について考えるべきなのかなと感じた。特に忙しいときは、仕事が終わって残りの数時間が「自分の時間」と思ってしまいがちだが、そういった忙しさも含めてすべての活動時間が自分のオンの時間であること、逃げるようにゲームをしていても虚しいだけだ。

流れに乗るのは「安楽」なこと

いわゆる「ミーハー」という概念への突っ込みというわけだが、面白いのはここで取り上げているのは「ベトナム反戦」など学生運動についてだった。そして、以下のように述べている。

みんなと一緒にベトナム反戦を唱えていれば、それはそれで安楽な暮らし方だった。ほんとうは、一人ひとりが、これは是、これは非ということを判断できなければいけないわけだけれど、ああいう全体主義的な思想、思潮のなかでは、なかなかそうならない。

「ベトナム反戦」の限界

現代では、SNSをはじめとして「数字」で可視化され思想や意見の大小がわかってしまう。それに乗っかればよいという考えができてしまうのは、当時の学生運動以上にかんたんなことなのだと思う。これに反抗して、自分で判断をすることこそ、これからの時代で必要になってくるのだろう。
これは本書でも触れている『学問のすすめ』にあるような「独立」と通じる考えなのだと思う。


おわりに

本書を読み終えて、次に読んでみたくなったのは『学問のすすめ』です。
「独立すること」の意味などを、著者の大先輩の考えから覗くべきなのだろうと思いました。

他の読書論モノだと、「読書をするのはえらいことだ」と褒めてくれます。しかし、本書ではもっと気楽に読書に接する考えを示しています。そうすることでもっと読書を生活に浸透させる、オンオフという捉え方を崩して、考えることを日常のものとすることが目標地点なのだと感じました。


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