見出し画像

いい加減な主従関係では何もよいものは生まれない

(書き下し文)
定公(ていこう)問(と)う、君(きみ)、臣(しん)を使(つか)い、臣(しん)、君(きみ)に事(つか)うるには、之(これ)を如何(いかん)せん。孔(こう)子(し)対(こた)えて曰(いわ)く、君(きみ)、臣(しん)を使(つか)うに礼(れい)を以(もっ)てし、臣(しん)、君(きみ)に事(つか)うるに忠(ちゅう)を以(もっ)てす。

(現代語訳)
定公(ていこう)が「君が臣を使い、臣が君に事(つか)えるには、どうあるべきだろうか。」とたずねた。
孔子先生は言われた。「君たる者は礼を以て臣を使い、臣たる者は忠を以て君に事うべきであります。」

(思いや学び)
学ぶ者の立場として、多くの事は望まないが、粗末に扱ってくる上の者より、礼儀ありきで正しく指導してくれる人についていきたいものだ。
人の脳内を見ることはできないから、指導者の教育の真意は事細かに分からないけれど、心ある指導と痛めつけようとする指導の違いは、弟子と意思疎通が出来ているかいないかであることは確かだと思う。
理解していない人間には、何を言っても身にならないし、改善の余地がない。指導者の立場としては、弟子が理解できるまで時間の許す限り、ゆっくりと話し合いたい。※実際は時間がかけられないのが現実ではあるのだが。
かつての上司は、私が話の内容をきっちり理解できているか確かめるためにいつも質問してきました。私は事の詳細を答えることができませんでした。
毎度の質問が嫌で嫌で仕方が無かったですが、今思うとこれは、教育には絶対に必要な過程だと気がついたのです。
養老孟司氏が著書で述べていたことで面白い内容がありました。情報の入力と出力は一次関数の関係にあるとのことで、y=ax(y=出力 x=入力 a=係数)という方程式のもと成り立っていると。
つまり、ある教室で先生が伝える情報(x)を生徒全員が脳内にインプットしても、係数(a)いわば情報を受け取る感度により、生徒それぞれ出力(y)いわばアウトプットの内容が変わってくるということを表しています。
学びの場において、いかに自分事として関心を持つのか、ここが私の課題でもあり、日本人の課題であるとも思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?