「アカデミック」なものに対する憧憬の念とひがみ。ぶれる「自分」。

 何故、素直になれないのだろう…?

 J-POPの歌詞の話でも恋愛の話でもない。

 NHKの「ニッポンのジレンマ」という番組がある。端的に言えば最近の日本の問題について座談会のような形式で議論をしている番組。最近気が付いたのは、自分がこういう議論とかに対して「分かる」ときと「分からない」ときの態度が異常に変わることだ。

 議論はあるテーマに沿って、若い世代の割と「賢い」とか「アカデミック」なイメージの人々、例えば実業家の方だとか、大学で教えている方だとか、国際政治をやっている方だとかを中心に展開されている。頭の回転が速い感じで、専門用語や横文字が自然に、早口で語られることも多くて、私はそれについて意味が分かるときは、彼らと似たような語り口でその場にいる家族と議論じみたものをすることが出来る。それは楽しさをもたらすものだ。もちろんもともと話すとかしゃべるとかそういうことが好きなのもあるのだけど、ある種の優越感を感じているのも否めない。というか、感じているのだ。彼らの話す言葉は、このとき「憧れ」として存在する。

 しかし「分からない」とき、私はいきなりふてくされた可愛げのない中学生のようになる。「はー?専門用語とか横文字とか意味ふめー。これだからカシコイ人は嫌だよねー。」みたいな。それか一時期流行ったような気がする天然バカキャラになるか。このとき彼らの話す言葉は、私に「劣等感」を与える存在となる。

 自分の中でこう態度に異様な変化があることが嫌だなと思ったのだけど、これは他の人間とのコミュニケーションのなかで気が付かされた。あ、私こそが、まさにこういう態度をとってしまっていたんだ、と。

 何かというと、ある人間にとって私は「賢い」「アカデミック」なキャラである。「芽ぐみは賢いもんねー。」とか実際学生時代に言われたりした。(ちょっと違うけど「とわさきさんクリスチャンなんですね。クリスチャン似合いますね。」とか。ファッションじゃないねん…。)若干冷ややかな視線、態度。でもちょっとその人たちに対して優越感を感じていた私もいた。

 しかし、私は別に賢くも勉強好きでもまっっっっっったくないのだ。

 今度は、イメージとして私より「上」に存在する人間に接したとき、私の中に「ひがみ」の感情が生まれる。ぺらぺらと英語を話せる方、有名な大学を出た方、そういう方同士が集まった中にいたときがあり、彼らが私には分からない話を楽しそうにしているのが、とても寂しかったから、それは怒りの感情にもなった。

 もちろん、専門用語とかがある場合は、それについて分からないことも当たり前になると思うのだが、恐らくもう少し噛み砕いたり、ゆっくり話したりすれば、私にも分かる内容はたくさんあったと思う。

 何故もっと、素直になれないのだろう?素直に、ありのままに、余計な装飾をつけずに、良い意味で「自分のまま」でいられないんだろう。シンプルでいられないんだろう。

 どうしても、「こう思われたい、こういう自分でありたい」が先行してしまう。

 あくまで自称ではあるが、“表現者”としてほんとうは、シンプルな自分のままで、「外」で何が起ころうと自分に対して何を言われようと思われようと、良い意味で「変わらない」でいたいのだが。

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