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家族に精神疾患を持つ方へ

最近はいつも私が窮地に陥ってる時に、「今電話できる~?」って何にも言わずとも私の投稿から察して連絡してくる友人にサポートしてもらってる🍀​


どんな私でもどんな時でも、いつも理解してくれて「うちはこうだったんだけどさ~」って、自然な形で気づきに導いてくれる。​


彼女の愛の大きさは計り知れない😃​


今日ね、私が眠れないなぁってなってる時、実は今まで全く意識してなかった事がでてきてね。​



うちの母は7人兄弟の上から3番目の女子1人。​
小学校3年生の時に両親が離婚してからずっと、兄や弟のお母さん代わりになり、友人と遊ぶのもやめて家事全般を担っていた。​


だから弟達も可愛いいんだよね。​


下から2番目の弟は繊細だったのか、20代~30代くらいから統合失調症で精神科の入退院を繰り返していた。​


これね、精神科に勤めた経験がある人か身内に精神疾患がいた人ならわかると思うけど、障害年金が出た時とかの「小遣いちょうだい」とかの電話は半端なくしつこいわけ。​



小学校中~高学年の私。​
高学年は母がギャンブル依存でどんなに「行かないで」と言っても、朝の開店から夜12時の閉店までうちにいない日々。​


学校から帰ったら、母から電話取らなくていいからって言われていた叔父からの小遣い催促の電話が鳴り響く日々。​


金銭の余裕がある時はバスに乗って我が家までくる叔父。​


「章子ちゃ~ん、ねぇねぇ。いるんでしょ?○○だよ開けて~」ゴンゴンゴンと叔父とお婆が来ることもしばしば。​


1人で留守番してた私は怖かったんだよね~。​
勿論ドアなんて開けられない。​


そんなある日、叔父さんが過量服薬で自殺を図った。​


私はさ自分を責めたよね。​
「私があんな酷い態度をとったから叔父さんを追い詰めてしまったのかもしれない」と。​


きっと、母も私と同じような罪悪感抱えてたんだろうな。母みたいに育ててきた弟だから余計にね。​


叔父さんは一命は取り留めたものの、リハビリが必要な状況だった。​


頑張ってリハビリをして回復の兆しが見えた頃に、突然退行しだした。​


全てのやる気を失い、段々と歩行機能もおとろえ、最後は暴れるからとベッド上で拘束される日々。​



そんなある日、私が24歳くらいの頃、病院から電話があり「叔父が骨折したかもしれないから南部徳洲会にきてほしい」。​


当時、免許取り立てで車も無かった私。​
親友に車を借りて母と南部徳洲会に向かう。​
その日は実は私が人生で初めて自発的に看護師免許を取ると決めて、明日が看護学校受験という日だった。​



学校受験の為に昼夜バイトして、0時過ぎに帰宅し、2~3時間寝て早朝から勉強というのを半年程繰り返してる時だった。​


え?何でよりによって今日なの⁉️​
と思いながらも病院に向かう。​



母は自分の罪悪感を誰かに転換したかったんだろうなぁ。「弟が骨折するなんておかしい。あの病院が骨折させたんだ」と元々いた病院に苦情の電話を入れる始末。​


とりあえず、その日は叔父にできるケアをして冗談を言いながら、翌日病院から直接受験会場に。​


私は数学が苦手で、受験の時も小3の分数からさかのぼって勉強していた。​

数学の自己採点は32点。​
「あ、多分落ちたかもな」と覚悟した。​


受験が終わり、叔父の病室に向かう。​


拘縮して握ったままで臭くなってる掌をお茶で手浴しながら、叔父さんに冗談を言って笑わせていた。勿論この時既に叔父は「あ~ぁ、う~う」しか発語できず、言語でのコミュニケーションは難しい。​


でも、顔の表情や擬音語から叔父の感情を読みとってた。​


叔父の足の骨折の手術が終わり、安堵したのも束の間、母の度重なる苦情から以前叔父が入院していた病院と話し合う事に。​


母とはまともに話す事ができないからと、キーパーソンは私になり・・・​


やっと自分がやりたい事を見つけたにも関わらず、若くして叔父や祖父のキーパーソンに。​


病院側としては「そんなに言いがかりをつけるなら、信頼関係が築けないので、退院後はうちではなく他の病院に転院していただきたい」​


逆上する母。それをなだめる私。​



正直どちらの気持ちもわかる。​


ずっと叔父の病状を見続けている私からしたら、病院が悪いとは思えない。事故だったんじゃないかなと。​



だから、私は病院側の転院要求を受け入れた。​


その後に落ちたと思っていた看護学校は無事合格。本当ありがたかった。​


今日はさ、友人との会話の中で今まで思いだしもしなかった、小遣いせびりの恐怖を思い出した。​



本当に精神疾患がガッツリ発症してる時って、狂気にも似たものがある。​


でもさ、狂気に満ち溢れてる本人も、そうしたくてそうなったわけではなくて、キャパ超えてずっと受容し続けた結果なんだよね。​


だからこそ、そうなる前の心の風邪の状態でなんとかしたいと思ってしまう。​



その人の人生を決めるのはその人自身だからさ。周りができる事なんて実は限られてるんだろうけど。​


叔父は30代でそんな人生だっけど、よくやってきたよ。​


そう言ってる私はもう40代半ば。​
叔父より長生きしてる。​


だからこそ、これからの人生を大切にしたいと思う。十分過ぎる程の苦労は山のように味わってきたから、後半戦はもっと自分が楽に今まで感じたことがないくらいの幸せを自分に味合わせてあげたい。​


私の長々とした1ヒストリーを最後まで読んで下さりありがとう。​


今同じような状況にいる人の小さな希望にでもなれたら嬉しいな☺️​


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