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「月が綺麗ですね」なんて今はまだ言わない(武藤いつみ編)

このお話は小説「トライアングル・ドライブ」のなかの登場人物、武藤いつみを時間順に追った物語です。

本編で描かれなかったエピソードとして、

・いつみが矢萩に好意を抱いた理由
・真人の作戦の追記
・最終決戦後の涼子とのやりとり
・いつみが岳の良さに初めて気づくシーン
などがあります。
よろしくどうぞ。



幼稚園の頃から私は他人と比較して少しズレた人間だった。
ある日の午前11時、当時4歳の私は園内で親友の涼子の髪の毛を右手で力の限り引っ張り、涼子は涼子で私の頰を両手で渾身の力でつねっていた。

痛い痛い!離してそっちこそ離して!と互いに怒鳴りあう。慌てて担任のななちゃん先生が駆けつける。

「ちょっと!あなたたち何やってるの!」

先生に怒鳴られると涼子ちゃんが先にうわーんと嘘泣きをする。
うわ、ずっるい。涼子、嘘泣きすればいいと思ってるんじゃないよ。私もすぐに涼子を追ってうわーんと大きな声で嘘泣きした。

困りきったななちゃん先生はため息をついた。今日で園児たちの喧嘩仲介は何度目だろう。そんな感じだった。

「ねえ、どっちが悪いの」

そんな聞いてもどうしょうもない質問をななちゃん先生は投げかける。私と涼子ちゃんは瞬時に人差し指でお互いを指差す。ななちゃん先生は、はーっとまたため息をつく。

「いつみちゃんが私のシルバニアファミリーを無理やり取った」

泣きながら涼子ちゃんが訴える。そう言われるとそんな気もする。ぶんどった気がする。握りしめた左手のなかにシルバニアファミリーがあった。そうだ、シルバニアファミリーのうさぎの女の子の目がキラキラしていて綺麗だったから涼子ちゃんからぶんどった。だってそれで遊びたかったんだから奪い取るのは当たり前でしょ。

「いつみちゃん!貸して欲しかったらお友達に貸してねって口で言いなさいって前から言ってるでしょ?」

ななちゃん先生はキンキン声で私を怒鳴る。はーいと私は適当に答えて、シルバニアファミリーを床に乱暴に放り投げた。あ!こら投げない!とななちゃん先生。

投げ捨てた途端に私はシルバニアファミリーのことは忘れ、走り回りたい気分に駆られたので私はハイホーハイホーと歌いながら園庭に向かった。
背後からまだお話は終わってない!とななちゃん先生のがなり声が聞こえたが無視して覚えたてのスキップで校庭へと向かった。

いま思い返しても、わたしの物語は冒頭からどこかおかしかった。いちばんはじめから私の頭はどこかずれていたと思う。相対評価でも絶対評価であっても。小学校へ入学しますます自分の異常性は確信に近づいていった。

まず、小学校1年から今日に至るまで客観的に見ても、他人と比べて忘れ物が異常なほど多かった。
時間割を見て明日の分の教科書を間違えがないよう慎重にランドセルに入れても学校に到着すると何かしらを忘れていた。
忘れ物常習犯で先生にこっぴどく怒られても次の日、ちゃんと忘れ物をする。
通知表には全学年を通して「落ち着きがない」とばかり書かれていた。良くて「マイペースにがんばっているようではあります」の表記。「ようではあります」ってなんだよ。間違いなく私はマイペースで頑張っているよ。天才型と努力型に二分できるとしたら、私は圧倒的努力型に振り分けられると思っている。そう言われた試しがないけど。

ただし私の通常時の集中力は他の人に比べると哀しいかな著しく劣るのは間違いない。

例えば授業中に「りんご」という単語が出てくると途端に頭の中で連想ゲームが始まってしまう。りんご、ごりら、らっぱ、ぱいなぽー、ポパイ。ポパイって缶詰めのほうれん草食べてるよね。缶詰めのほうれん草って売ってるの?見たことない。成城石井とか行けば買える?ていうかほうれん草で力、出る?

動作が雑で片付けも苦手。片付けている時に意識が別のところに行ってしまって最後まで片付けられない。手も不器用で包丁もきちんと扱えない。りぼんもまともに結べないから長さも揃えられない。髪の毛も器用にセットできなくて、いつもポニーテール。小さい時からポニーテールしか結えないから脳天にハゲが出来ている。ポニーテールハゲ。

注意力散漫なのに、何か気になることがあると尋常ではないくらい執着する。例えば2時間連続の図工の時間で絵を描くようにと言われたら誰とも話さず一心不乱に絵に向かうことができた。できた、というか右手が勝手に動いて道具を離してくれない。思い描くイメージの世界にどっぷりと入り込んでしまい、自身の力でこちらの世界に戻って来られなくなってしまうのだ。
授業が終わっても描き足らなくて先生にもう終わり!武藤さんいい加減道具を片付けなさい!と怒鳴られて、無理やり机から腕を剥がされ泣きながら教室に戻った記憶がある。

感情の起伏が激しくて、気に入らないことがあると友達の襟を掴んで罵倒したり、殴り合いのけんかをしたりした。正確には誰かが止めに入るまで一方的に殴っていただけだけど。
今はだいぶ感情のコントロールができるようになった。なったはず。アンガーマネジメントを教えてもらえるセミナーに母親に連れていかれたから。怒りの最中に意識を他の方向に散らす練習を何百回と行ったから。

幼い頃の私の行動は両親から見ても異常に映ったらしく、小学校5年生の時に精神科に連れていかれた。嫌がる私に終わったらサーティーワンのアイス買ってあげるからいいから来て!と言われて、レギュラーサイズのダブルじゃないと絶対嫌だからねと言い、両親に引きずられながら病院へと連れていかれた。

診断結果としてある病名を伝えられたけれど、医者は診断結果を見ながらこれは正確には病気ではなくて脳機能障害にあたるため治せるものではないから周りが温かく受け入れてあげてくださいと説明をしていた。状況や病名がはっきりすることで安心するケースもあるだろうけど両親は酷く落ち込んでいるようだった。
小学校を卒業すると健常者の通う区立の中学へと進学した。
病気の件は普段の生活を行うだけなら特に気にしない。
だって病気だろうがなんだろうが私は私。病気じゃないけど頭おかしい人なんて世の中ザラにいるでしょう?不便だとは思うけどそれ以上に悲観なんてしない。
開き直りかよと言ってくる人もいるけどあなただって欠陥だらけじゃんと私は強く思う。人間なんてどいつもこいつも不具合だらけの変態ばっかりだ。あなたたちがご自身の変態性に気づいていないだけで。

私が中学校に入学する少し前、お隣の墨田区に東京スカイツリーが建設された。川を挟んだ区に観光地ができれば、相乗効果でますます墨田区と台東区の財政は豊かに発展することだろう。台東区はもともと浅草寺とか上野とかがあってもうすでに立派な観光地だから、スカイツリーは墨田区に建設した方がずっといい。全部台東区に寄せ集める意味が私にはわからない。

中学2年に上がって、クラスのメンバーがものの見事にシャッフルされたものだから、いちからクラスメイトの顔を覚えなければいけない。

教室で前の席に座る三井君は黒ぶちメガネをかけている。私は人の顔を区別して認識することが苦手だから手帳に知り合い全員の名前と似顔絵と特徴を書いて、時々手帳を見返して名前を確認する。三井岳。愛称ミッチー。黒ぶちメガネ。柔道部。忘れ物貸してくれる。ポニーテール褒めてくれた。私は三井君のことをミッチーとは呼ばない。ミッチーと呼んだ瞬間スラムダンクが頭を占領して連想ゲームが始まっちゃうから呼ばないようにしている。安西先生、バスケがしたいです。ダメダメ、集中集中。集中して、三井君と呼ぶ。三井君、いい人。わたし、三井君ふつう程度に好き。

三井君だけではない、女子も男子もそれぞれの教科の教師の名前と似顔絵と特徴と地雷の言葉をひとりずつ私は手帳に書き込んでいる。
例えば三井君は自分に個性が足りないことを気にしているから、「キャラ薄い」とか「モブかよ」とか「ただのメガネのくせに」という言葉が地雷ワードだ。

同じクラスの南真人君については、多分だけど彼はゲイだ。ゲイかバイかははっきりしていないけど、やたら三井君にちょっかい出してよく三井君の黒くコシのある髪の毛を撫でている。ときどき三井君の背中から抱きついたりしている。
そのくせ、他の男子に触られることを南君は極度に嫌がるし、女にはやたら冷たい態度で接したりする。
私は性的マイノリティーについてどうも思わないけど、そう言った言葉を南君に吐くことで彼を深く傷つけたいとはまったく思わないので、南君への地雷ワードとして「ゲイ」「ホモ」「男好き」「三井君」と付け加えている。なんだこれ閻魔帳みたいだな私の手帳。

でもこうやってめちゃくちゃ時間を割いて手帳を作ってでもしなきゃクラスの子たちとうまくやっていけないんだよ。
そもそも人の顔の区別がつかないんだから。

不便だよ、私の障害ってめっぽう不便だよ。ときどき手帳を破り捨ててうるせえなあ私は私で生きてんだから放っておけよ!と叫び出したくなるときももちろんあるよ。
それでもそういう感情をぐっと我慢して、不便に思うことがあるなら、それをカバーできる道具を使って、頭を使って前に進もうって思っているんだ。
もう、そうするしか仕方ないんだ。リタイアせずに生きるには努力と工夫で這い上がっていく方法しか残ってないんだよ。
誰からも私の脳の仕組みを理解されないとしても。

私には三井君よりもっと好きな人がいる。科学の矢萩先生。郷ひろみみたいでカッコいい。科学のミニテストの答案用紙の隅に小さな文字でメッセージを書くと、矢萩先生はきちんとコメントを返してくれる。小さな文通。2人だけの通信。
矢萩先生に頭が悪いと思われたくない一心で科学の勉強を始めたら、連動して他の教科の点数も軒並み上がった。暗記でいける勉強なんてコツさえ掴んでしまえばちょろいちょろい。
暗記で点数が取れない数学の考え方を矢萩先生から教えてもらうため、放課後に職員室をノックした。これを一石二鳥という。

「矢萩先生、数学教えてください。満点取りたい」
「はあ?俺、数学じゃなくて科学の教師なんだけど」
「同じ理系じゃん教えてよ」
「わかったわかった。じゃあ、これ解いてみて。……武藤、お前最初の計算、掛け算がまず違ってるから、もっと落ち着いて計算しろ。これも、これもこれもこれもこれも全部ケアレスミスだ。もったいねぇよ。
もっと「解」を大事にしろ。問題作成者に敬意を払え。こちとら教師は遊びで問題を作ってるんじゃねぇんだよ。
公式なんて理解できないなら理解しようとなんてしなくていい、解答を導く意味なんて考えなくていい。点を取りたいなら正確性とペース配分だけ考えろ。
とにかく基本の計算が間違えないように自分でキリのいい数字定めて何百回も解く練習をしろ。計算終わったら確かめ算して確実な数字を叩きだせ。それが数学へのお前ができる精一杯の誠意だ」

矢萩先生が数式の完璧性を述べるとき、岩石の美しさを謳うとき、人口知能の可能性を語るとき、はるか遠くの惑星の秩序を願うとき、先生の瞳はふだんの何倍も澄んでいる。そういうときの先生の背はしゃんして、
「おまえたちは未来があっていいよなあ」
と誰に向けて言うわけでもなく、必ず付け加える。

「なあ、お前たちは俺よりずっと未来に生きることができるんだぜ。だからまだ失望したら駄目だ。絶対にいい未来が待っているはずだから簡単に諦めたりリタイアしたら駄目だ」

と生徒全員に向けて言う先生の眼差しは真剣そのものだ。

「武藤の障害だって未来には完治できるかもしれないぜ。武藤のことをそのまま受け入れてくれる人間がもっと増えているかもしれないぜ」

ある日、矢萩先生はそう呟いた。私のことを先生のなかで一番理解してくれた矢萩先生を私は好きにならずにはいられなかった。

私には誰にも見えないところにスイッチがあって、ひとたびカチリとスイッチが入れば人並み以上の力が出せるんだ。そのやるきスイッチを押してくれるひとりが矢萩先生だった。
なかなか他人から理解されないことだけど。私のスイッチにはオンとオフしかないのが玉に傷だけど。

矢萩先生とたくさんお話がしたくて科学部に入ったけど、なんと矢萩先生はマイコン部の顧問だった。いつもの事前調査ミス。オーマガー。しかも仲の良い女の子と一緒に科学部に入部したから自分だけ退部することはできない。さすがに。自分勝手が原因で友達減らすのはいい加減嫌だ。脳みそがバグっている私だって少しぐらいは学習する。
そんなことで今日も今日とて隅田川の水質調査をする。部活の先輩3名は全員男子で3名とも私と目を合わせて話してくれない。ねえ先輩たち、人と話すときは目を合わせて話しなさいって幼稚園の時に習わなかった?彼らは後輩にあたる私になぜか敬語を使って話す。必要最低限の会話。武藤さん、隅田川の水を汲んで来てください。武藤さん、ドアは静かに閉めてください。武藤さん、ちょっと静かにしてください。

彼らに教えて貰った通りに私は隅田川のペーハー値を測ったり、川のにごりの度合いを調べたりする。ときどきかるめ焼きを作ったり、溶かした寒天をシャーレに流し込んで固めて菌を培養するための地の部分を作り、日常の中に潜む菌を採取したりした。寒天培地。時には校長室をノックして、校長先生の足の指の菌を採取した。意外にも校長先生の足の指の菌の数が少なくて部員のひとりの涼子とやるじゃん校長と感心しあった。時々、矢萩先生が科学室を覗きに来て、どうよ隅田川の水質マシになった?などと声をかけてくれる。

その日、部員全員が休みでひとりで水質調査をしていた。2月の科学室はしみじみと底冷えする。白衣姿の矢萩先生が科学室のドアを開けてひょっこり顔を見せた。憧れの矢萩先生は今日も眉毛が立派だ。

「あれ?武藤、今日ひとり?そういえばさ、武藤って石に興味あったよね」

そう言って矢萩先生は白衣のポケットに手を突っ込み、ごそごそなにかを探しはじめた。

「先生なにごそごそしてるの?」「はい、これあげる」

手のひらにころりと置かれたのは、小さなアメジストだった。

「この間の小テストの余白に今月誕生日って書いてただろ?アメジストは2月の誕生石だから」「貰っていいの?」「いいよ。でも俺があげたことは他の生徒に内緒ね。ひとりにあげるとみんな欲しが…」
言い終わらないうちに私は高くジャンプして矢萩先生の首に抱きついた。ちょっと、やめろ!と言って本気で嫌がる先生。嬉しい!先生大好き!首に巻きつけた私の手首を持って引き剥がす矢萩先生。
「武藤、あのね。俺、既婚者だし生徒はそういう目で見れないし、武藤は論外だから勘弁してくれよ」「なんで!先生のこと好きなのに」「俺はそういうお前のストレートなところが正直無理なのよ。石は勉強と部活頑張ってるご褒美ってことで。ごめんな。じゃあね」

矢萩先生は白衣についた私の髪の毛を指で払ってから科学室を足早に去った。あれ?いま私振られた?こんなにもあっけなく人は振られるのか。そうか、私、今さっくりと告白してたもんな。しかも抱きついて大好きとまで言ったよな。ちょっとテンション上がりすぎてた。……っていうか、論外ってなに?なんで論外の生徒にアメジストなんてあげるの?二人きりの部屋で。これ内緒ねなんて言って。大人ってずるい。

イライラして全身に鳥肌がぷつぷつと沸き立ってきた。なんでなんでなんでなんでなんでなんで。いけない、いけないアンガーマネジメントしよう。科学室の壁に目線をやって、壁の傷の数を数える。いち、にい、さん、しい。数えながら手のひらのなかでひんやりとしている紫色の固形物を、私はぎゅっと握りしめた。ごお、ろく、しち、はち。

高校生ってこんなにつまんないなんて知らなかった。漫画だと大抵、放課後に彼氏とおてて繋いで放課後デートしてんじゃん。
高2にもなってなぜ私はひとりっきりで帰路についているのか。

あと数日我慢すれば冬休みだ。吐きだした二酸化炭素の色は白く、指先からかじかんでいく。校門を出てすぐ近くにあるスーパーの店頭ではかぼちゃと柚子が山積みで並び、夕ご飯の買い出しのために来店した奥様方はカゴを手にした後、決まりごと守るアンドロイドのように店の入り口に置かれたかぼちゃと柚子を一つずつカゴに投入し店内へ進んでいく。

私も柚子を1つ掴んでぐるりと店内をまわってレジに進み、袋はいりませんと言ってそのままスクールバッグに柚子をつっこんだ。バックの中には財布以外は教科書もペンケースもなにも入っていない。バッグの取手に片腕ずつ突っ込んで、リュックサックのように背負った。

今日、体育の授業のあと制服に着替えようとしたら、制服のスカートがハサミで斜めに切られた状態でゴミ箱に雑に捨てられていた。昨日は英和辞書がカッターでぼろぼろに切り刻まれていた。
ゴミ箱に手を突っ込んでスカートを引っ張り出す。2、3度バサバサを振って埃を落としたら、私の机の中に乱暴に突っ込んだ。
制服って結構高いんだけど容赦ねえなあ。

一週間前は上履きの中にぷっちんプリンがカップからプチっと出された状態で入っていた。揺れる頭頂部のカラメル。
私が所有する教科書すべての表紙には黒マジックペンででかでかと「SEX」といたずら書きされている。はじめてそれを見たとき小学生か、とちょっと笑った。あんたの辞書に書かれたいちばん卑猥な単語が「SEX」なの?もっとなかった?ピーとかピーとかピーとか。
クラスの女子に話しかけてもことごとく無視をされる。廊下を歩いているとやりまーん!と声をかけられる。
どうやら私はいじめにあっているようだった。

主犯は想像がつく。同じクラスの飯島涼子だ。もともと私と涼子は仲が良かった。仲が良かったというレベルではなく、幼稚園の頃からの親友だった。中学でも同じ科学部で3年間隅田川の水質調査をして過ごしたし、涼子の悩みは私の悩みだった。私が抱える脳機能の障害についても涼子は良く理解してくれた。くれていたと思いたい。
高校になると出る杭を全力で打ってくる女子が増えるからあんまり目立たないようにした方がいいよとアドバイスをくれたのも涼子だった。それまで暗記で乗り越えていた勉強も高校に上がってからは暗記だけではカバーできなくなり、遅くまで勉強に付き合ってくれたのも涼子だった。それまで私は涼子が大好きだったし、涼子も私のことが大好きだったと思う。

私たちの関係ががらりと変わってしまったのは、涼子が彼氏を紹介してくれた7月のある夏の日からだ。今年の夏は例年の暑さを上回るほどの猛暑だった。涼子の彼氏は心理学部を専攻している大学1年生だった。大学生とどこで出会ったんだろう。手帳に彼の特徴を書いていないから、彼の名前も顔もぼんやりとしか憶えていない。確か、眼鏡をかけていたような。
その日、デニーズで涼子と話をしていたら彼が遅れてやって来た。くだらない話を1時間ほど話して、涼子がトイレに行くために席を立った時に、彼はテーブルに置かれた私の手の甲を見て不思議そうに言った。

「いつみちゃんの手の甲にたくさん文字が書いてあるのはどうして?」

私はその質問に対して馬鹿みたいに素直に答えた。

「私ね、ちょっと脳に障害があるっぽくて、やらなきゃいけないこととか、持ち物とかすぐ忘れちゃうんです。だからこうやって手に書いて忘れないようにしてるんです」

わたしがそう答えたときになぜか彼の顔がぱっと明るくなった。話を聞くとどうやら彼は私が脳機能の障害者であることに興味を持ったようだった。大学で障害をもった人間の研究をゆくゆくはしていきたい、のだそうだ。

僕は世の中の障害を軽くしたいんだ、障害なんていう壁をぶち壊したいんだ。困っている人を僕は助けたい。いつみちゃんも色々大変なことあったでしょう、いままで。きっととってもとっても大変だったと思う、僕が世界を変えるからね。大変だったね、安心してね、あと数年の我慢だからね。

目の前で涼子の彼氏が酷くうすら寒いことを語っている。僕が世界を変えるだって。ラノベ読み過ぎじゃない?障害を軽くしたい?それはそれはご大層な。私は苛立ちを分散させるため、2メートル先にあるドリンクバーの看板の文字をゆっくり目で追った。コーラ、オレンジジュース、カルピスウォーター、爽健美茶、エスプレッソ、カフェオレ。ああ苛々する。

思った以上に涼子の彼氏はあほっぽいな。これのどこがいいのか理解できない。こんな頭でも大学の心理学部に合格できるのか。
あなたはいま、障害者の私に向かって「大変」を連呼しているけど、私はひとことも「大変」なんて言ってないよ。人の話、ちゃんと聞いてる?鼻の穴を興奮しがちに開いた彼が私の手を握りながら、

「いつみちゃん、連絡先教えてくれない?君が抱えている病気のこと、もっと沢山知りたいんだ。ね、良いでしょ」

と言ったため「私のは正確には病気ではなく、脳の機能障害です」と訂正をしようとし
たその瞬間、私の後ろで涼子が

「ねえ、なにやってるのあなたたち」

と静かに振える声でつぶやいたのが聞こえ、それ以降涼子は私ときちんと目も合わせてくれない。足早にデニーズを出て行く涼子に向かって

「待って誤解だよ、あの人は私自身じゃなくて私の障害に興味があるだけなんだよ!頭がおかしい私に興味があるだけなんだよ!」

と大声で弁解しても

「それどう違うの!」

とギッと猫目をさらに釣り上げて返された。何言ってんだよ、全然違うだろうが!ちゃんと聞けよ!と説明を繰り返しても、手を握ってたくせに。人の彼氏に色目使ってんじゃねえよと言われるばかりで、涼子は最後まで私を受け入れてくれなかった。
その直後からだ。私の物がなくなったり、破壊されたり、傷つけられたりしたのは。

ある日、「武藤いつみと話すとビョーキが移るから気をつけて」と書かれてたメモ紙が授業中回ってきた。顔を上げて周囲を見渡すと数名の女子がくすくすと笑い、静かにするように担任が全体に注意を促した。「祝!武藤いつみ100人斬り達成」と黒板にでかでかと書かれたこともある。

障害持ちは確かにそうだから百歩譲って病気と言われるのはまだいい。でも私はまだ処女だからやりまんみたいな書かれ方は納得いかない。涼子は他校の男子に私が誰とでも寝るといったガセを流しているようで、下校中に他校の男子生徒に危うく襲われそうになったこともある。だから、催涙スプレーは必需品だ。
今日は催涙スプレーを忘れたので、代替品としてスーパーで柚を買った。ブシュっと目の前でかんきつ類を握り潰したら少しは役に立つかもしれないから。

夏から始まった涼子主導のいじめはコンスタントに継続し、教科書はいくら買い直してもいたずら書きされるので、全教科「SEX」と表紙に書かれた教科書を使い続けている。親に見つかるとさすがに恥ずかしいので教科書は全部学校に置いてある。先生にいじめのことを伝えたこともあるけれど一向に改善策を講じてくれない。そんなもの想定の範囲内だ。

今私が背負っているスクールバックの中から柚のいい香りがふんわり漂う。スカートの代りにジャージを履いていて私の格好はダサいことこの上ない。
今日、どうしても耐えきれない出来事があった。休憩時間に矢萩先生の貰ったアメジストをペンケースから取り出して眺めていたら涼子が

「何その石。きったねーの」

と言って鼻で笑ってから私の指からアメジストを無理やり奪って教室の窓を開け、大きく振りかぶって窓の外に投げ捨てたのだ。

「ごめーん。手が滑った」

私が矢萩先生から貰った大切な石。私が唯一、矢萩先生から貰ったかたちのある思い出の石。アンガーマネジメント?そんなのできるわけない。脳が全身に緊急事態、異常事態のサイレンをウーウーと鳴らしはじめる。
最初に私の右手が涼子の頬を力の限り引っ叩いた。パアンと小気味良い音がした。先手必勝。口より先に手が出たらもう制御がきかなくなってそのまま思うがままに暴走行動を開始した。
ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない!
私のぎょろぎょろとした瞳は涼子のつり目にロックオンした。
私の体中の張り巡らされた殺る気スイッチが青から赤にドミノ倒しに押されていく音を聞いた。
今、確かに聞いた。
バチバチバチバチバチバチバチバチバチバチ。
頭の奥の方で火花がバチバチとスパークする、目の前がチカチカして目の前の景色が正常に見えなくなっていく。
許さない。絶対、赦さない。

私は涼子の髪を両手で思いっきり掴んで右足で彼女の腹部に蹴りを入れた。一発、二発、三発。涼子は涼子で負けずに私の頬を両手で引っ張って頭突きをかましてくる、一発、二発。ああ、頭の上に星とひよこが見える。ぴよってる場合じゃない。
ぶっつぶせ、張っ倒せ、私の頭頂部に対策本部を組んだ司令塔の隊長は物騒な言葉ばかりを命令してくる。目の前の敵をつぶせ、おまえの絶対的な存在を知らしめろ、叩きつけて敵のアイデンティティを崩壊させろ。お前は強い、お前は間違っていない、お前の頭は至極まっとうだ、お前の知能は高い、お前は障害者ではない。
お前は正しい。正しいことは、正義だ。

目の前の涼子はもはや友人ではなかった。私の敵で、私の愛おしい人との思い出を傷つけた悪だ。
涼子は悪だ。悪は成敗されて当然だ。必要悪なんてこの世には存在が許されない。悪は叩きのめされて闇に葬られるべきだ。学校のために涼子を殺そう、みんなのために涼子を殺そう、世界平和のために涼子を殺そう!さあ、みんなで涼子を楽しくやさしく歌いながら殺そう。
フォローミー!!  
愛 と 平 和 ! !  !

生徒が2人で大声でわめきながら取っ組み合いの喧嘩をしていると聞きつけた隣のクラスの担任が駆けつけると私だけを後ろから羽交い絞めにして涼子から私を引き剥がした。武藤、やめろ!それ以上やったら退学になるからおとなしくしろ!と怒鳴られ我に返った。

なんでこの状況だけをみて私だけが怒られるの?

そのあと私は職員室ではなく、だだっ広い会議室に私だけが呼び出された。広い会議室には担任、生活指導職員、教頭、校長が椅子に座り、私一人が起立の状態でなぜそんな行為を取ったかの事情聴取を受けた。
理解する気のない人の前で事実を言っても理解してもらえないと思ったから何一つ本当のことは言わなかった。
沈黙を続ける私を見て教頭が酷く可哀想な乞食を眺めるような態度で「しょうがないです、武藤さんは少し他の生徒と事情が違いますので。ね?武藤さんもこれから頭に来た時には手を出すのではなく、口でご自分の気持ちを伝えましょうね」と幼稚園生を説得するような口調で諭した。はい、ごめんなさい、もうやりません。と私は口だけで誤って会議室を出た。
私としては一秒でも早くアメジストを探しに行きたかったけど、会議室を出たら通学カバンを持った担任が私にカバンを渡して、正門までぴったりとついてきたから校舎へ戻ることができなかった。
次はないからな、と吐き捨てた担任の目は少しも笑っていなかった。
隅田川を挟んだ向こう側に見える東京第二電波塔は今日もただしく東京に電波をゆんゆん飛ばしている。紫色のライト、なんか今日はちょっと薄い気がする。ちょっと元気ないようにみえる。

スカイツリー、大江戸タワーとかダサい名前にされなくてよかったね。都民はいつまで江戸に固執するつもりだろう。
涼子に頭突きをかまされてから頭痛が酷くてなんとなく家に直接帰る気になれず、川沿いをスキップして進んだ。
楽しいことなんて何一つないのに幼稚園の頃を思い出して、ハイホーハイホーと歌いながらスキップして母校の中学校へ向かった。毎日がきらきらして、うずうずして、全力で生きていた中学時代に戻れたらどんなに良いかと思いながらスキップをした。
 

母校の桜中学を通り過ぎようとしたところで後ろから「いつみ」と声をかけられて振り向いた。
誰だっけ?知り合い?深緑のくそださいジャージのポケットから手帳を取り出して、相手の顔と手帳の似顔絵を見比べた。
南真人。都立で偏差値トップの高校に進学。

どんな時でもこの手帳だけは肌身離さず身につけていた。涼子の手下が私の手帳をビリビリに破こうとしたことがあったけど、その時に涼子が止めろ!と大声を出して制したのは少し意外だった。まあ、手帳は踏みつけられたけど。涼子によって。ばっちり足型残ってる。

なぜそういう状況になったのかさっぱりわからないけれど、母校の前でばったり出会った南君と三井君が、私の味方になってくれるという。三井君は私の高校に侵入して矢萩先生の石を見つけ出してくれるとのことだった。南君に至っては女装をして涼子との待ち合わせに現れた彼氏をおびき寄せて私と涼子を2人きりにしてくれるという。
三井君がもし警備員に見つかったら停学では済まないかもしれないし、南君においては最悪変な事件に巻き込まれるかもしれない。

はじめ、南君の作戦を聞いた時、これはいけると思った反面、危険だからやめたほうがいいと反対した。私は私でなんとかする、最悪1年ちょっと我慢すればいいだけだから大丈夫と言ったけど南君はがんとして譲らなかった。

「これは僕のためでもあるし、岳の下心のためでもある。それにこのままでいたらいつみはそのうち涼子を殺すだろ?僕の知り合いに殺人犯がいるんなんて、僕に泥がつくようなことは断じてしてもらいたくない。
今回のミッションをコンプリートすればここにいる3人の願いがすべて叶う。
方向性の異なる僕らの願望がすべて叶うんだ、びびって実行しないなんて馬鹿だ」

そう冷たく言ってのけた南君の顔は蒼白くて
妖艶だった。

私と南君と三井君の3人がほぼ同時刻に別々の場所でミッションを実行する今回の作戦名を、南君は「トライアングルドライブ」と名付けた。

12月18日 決戦の日曜日。
19時半過ぎには南君と三井君からミッション完了のラインが届いた。
あとは私だけだ。真っ暗な公園は30メートル先にある。あほみたいに視力が良1いので双眼鏡なんてなくても公園の様子はよくわかる。川沿いの高架下にはランニングコースが設備されていて、その途中にトンネルがあるので私はそこで待機をしている。
親には学校の補習授業があると言ってあるので制服で涼子を待ち構えている。

時刻は19:35。

19時過ぎには南君がものの見事に涼子の彼氏を誘って公園から連れ出していった。彼には私よりも女の才能があると思う。私は女の無駄遣い。ほんとうに言い得て妙だ。向こうから人影が見える。本日の主役、涼子の登場だ。不意に幼少期の思い出が頭をよぎる。幼稚園では涼子と喧嘩ばかりしていた。涼子が遊ぶおもちゃは不思議と面白そうに見えて、その都度、無理矢理彼女から遊具を奪って遊んでいた。

いま思い返しても、わたしの物語は冒頭からどこかおかしかった。いちばんはじめから私の頭はどこかずれていた。相対評価でも絶対評価であっても。

いけない、また私の世界にはいっちゃうところだった。涼子が公園に足を踏み入れ、鉄棒に背中をつけて上を向いた。私の見えないところにあるスイッチが、かちりと音を立ててなる。一歩、二歩ゆっくり近づいていくと鼓動はとくとくからどくどくに変わっていった。頭の先から足の先まで1℃ずつ体温が高くなっていくことを感じた。公園まであと10メートル、5メートル。
涼子と仲直りしたいって南君には言ったけど、やっぱり涼子のやったことは許せない。私のことを傷けるなんて許せない。友達だったくせに親友だったのに私なにも悪いことしてないのに私のことを傷つけるなんて許さない。友達だと思ってたのに。親友だって思ってたのに。

私は踵を蹴って、ブレザーを着た涼子の待つ公園に走りだした。風が頰をかすめる、涼子のつり目にロックオンする。目を大きく見開く涼子、ブレザーの襟を両手でがっちり握りしめて下に引く。

「なに!なんなのよ!」

大声を上げる涼子、腕を振り払おうとするが力では私の方が強い。絶対的に私の方が力が強い。パワータイプの脳機能障害者舐めんな。涼子の襟を強く握ったまま、三井君に教わった通り、右足を振り子の力で、外側から、ちょうど涼子の右足の後ろにひっかけて、足を手前に引くと同時に、勢いよく捻って、いやこっち側じゃなく左側を手前にして右を押すように捻って、涼子を勢いよく投げ飛ばした。背中から地面に叩きつけられる涼子。大外刈り、綺麗に決まった。一本!

倒れ込んだ瞬間、うぐっと声を上げた涼子、逃がさない。私は急いで涼子の腹のうえに跨いで乗っかった。マウント、取った。
迷うことなく私は両手で涼子の細い首を締めあげた。ぎゅうぎゅうと首を締めあげながら大声で叫んだ。出せるだけの大声で叫んだ。

「涼子、謝れ!私に謝れ!私のことを傷つけたことを謝れ!大事なもの捨てたことを謝れ!髪切ったことも、制服ボロボロにしたことも、私の家にペンキで死ねキチガイって書いたことも、親に生卵投げつけたことも全部謝れ!汚いことはひとつも自分でしないで他の奴に全部やらせて、くさってんじゃねえよ!そんなくそみたいな性格だから男を取られるんだろうが!」

私はぎゅうぎゅうと涼子の首をしめ上げ続けた。彼女が謝るそぶりを見せなかったらその時は涼子を殺す覚悟だった。涼子の顔色が赤から青、青から青紫に変わっていく、唇の端から白いあぶくがぷくぷくと出て、両腕がぴくぴくと痙攣し始めている。
死ぬか?私は人を殺すのか?私は涼子と友達でいたかった。涼子のことが好きだった。涼子も私のことが好きだった。なんでこんなにねじれてしまったんだろう。私の頭がまっとうだったらこんなことにはなっていなかったのだろうか。私の脳がまともだったら。私がまともな人間だったらこんなことにはなっていなかったのだろうか。

そのとき、涼子は彼女の右手のひらを最後の力で動かそうとしたため、一瞬腕の力を緩めた。

「謝る気になった?」

私が問うと、涼子が小さく頷いたと同時に後ろから強い力を感じ、振り返ると矢萩先生がいて私の脇下に両腕を入れ涼子から私を引き剥がした。勢い余って私は矢萩先生の上に倒れこむ。
矢萩先生の方に首を向けると先生はダッフルコートにグレゴリーのリュック、ジーンズ、赤いスニーカーを履いている。私服の矢萩先生を見るのは初めてだ。

「武藤、お前なにやってんの!頭、正気か!」
「私の頭はもとから正気じゃありません」「それは知ってる。でも今日の武藤は異常だ。正常の範囲を超えてるだろ!」

そういうと矢萩先生はリュックサックからボルビックの飲みかけのペットボトルを取り出して涼子の背に手を当てて起こすと彼女の唇にペットボトルの飲み口を当て、少しずつ飲ませていった。いいな、間接キス。涼子の顔色がだんだんと青紫から、青、赤というように変わっていく。ごほんごほんとむせる涼子。

「それで、これ、どっちが悪いの」

矢萩先生はそんな聞いてもしょうがないことを私たちに聞いた。それぞれの目をしっかりと見てから聞いた。どっちが悪い?そんなの涼子も最低だし、私だって人を殺そうとした最悪の人間だ。どちらが悪いなんてすぐに測れるものではない。

「どっちが悪いとか、そんな簡単な問題じゃないです」「この問題は根深くて、そんなにすぐ説明がつくものじゃないんです」

私たちが各々に回答すると、矢萩先生はあははと空を仰いで笑った。殺人未遂の現場を見て、被害者と加害者の顔を見て、そのうえで矢萩先生は笑っている。おかしいだろ。警察呼べよ。救急車呼べよ。私退学だろ。ていうか逮捕だろ。涼子も涼子で傷害罪で15年以下の懲役あるいは50万円以下の罰金に処されのが妥当だろう。
この現場にいる登場人物全員、被害者も加害者も第一発見者も全員もてんで頭が狂っている。
矢萩先生は私と涼子の背中にバンバン手を当てて

「お前たちが大人になってくれて先生うれしいよ。そうだよな、真実はいつもひとつとは限らないもんな。事実はひとつでもその裏側には登場人物それぞれの真実があるよな。真実はいつもひとつなんて嘘だよな。ところでお前たちここで何してたの。っていうかさ武藤、おまえ髪型すごいことになってるけどどうしたの?やけでも起こした?」

私が下を向いて沈黙すると、涼子がむせながらガラガラ声で言った。

「矢萩先生、ごほっ、いつみの髪型、げえほおっ、都内の女子高生の間ですごい流行ってるんですよ。ごほぉ、知らないんですか。いつみ高校入ってから私たちのファッションリーダーになったんですよ」

そう言って涼子はスクールバックに腕を突っ込んでペンケースからカッターを取り出すと、間髪いれず彼女の髪の毛を掴んで握ったカッターで髪に、刃を当てて、束にした髪を一気に剃り落とした。ギチギチギチギチ。

あっという間に涼子は私と同じざんぎり頭になる。涼子が左手を広げると、北風がびゅうと吹いて彼女の黒い髪の毛がぶわっと宙を舞った。風に乗り涼子の黒い髪の毛が高く高く舞い上がった。ほら、かっこいいでしょ?と言って涼子が笑う。

「それから、スカートもパンクが流行ってて」

そういうと間髪入れずにスカートにもザクザクとカッターの刃を入れて行った。ちょっとやめなって、そこまでやれなんて言ってない。涼子はまっすぐに私の目を見て言った。声を絞り出して言った。

「いつみ、ごめん。ごめんなさい。悔しかったんだ、いつもいつみばっかり目立って。私が好きになる子はみんないつみのことが好きだって言うし、中学ではどんなに勉強がんばってもいつみに勝てなかったし。障害持ってるなんて嘘だと思ってた。だって全然障害者になんて見えなかったから。その辺の子よりなんでも器用にやってたじゃん。そうやって障害者の振りして余計に目立とうとしてるんだと思ってた。ごめん、あんたの親に卵投げろって言ったのも私、襲えって命令したのも私。いつみのこと、羨ましかったんだよ。いつみならこれくらいなら大丈夫って思ってた。強いから、これくらいへっちゃらだって思ってた。ごめんなさい。もうしない。ゆるしてください」

涼子は許されるための嘘泣きなんかしなかった。それから涼子は深々と私に頭を下げてからもう一度、いつみを傷つけて最低なことをして本当にごめんなさいと言って謝った。

事情がわかったんだかわかんないんだかの矢萩先生は私の右手と涼子の右手の手首をそれぞれ強く握り、にっこり笑って

「はい、仲直りのあーくしゅ!」

と言い、私たちの手をぎゅっと握らせた。なにこれ、幼稚園児じゃないんだから。
だけど、私が少し右手に力を入れたとき、涼子も同じ分だけの力で握り返してくれた。鼻の奥がツンとして、顔を上げると、紫色に薄く光る東京第二電波塔が私たちをやさしく見下ろしていた。

矢萩先生と別れて途中まで涼子と下町の路地を歩いた。 カレーの匂い、醤油の焦げた匂い、あまい煮物の匂い。

「涼子、私の手帳、守ってくれてありがとう」

下を向いたまま私が涼子に言うと

「本当はここまでしたかったんじゃないんだけどね。自分が思った以上に爆発的な力でいじめって進むんだって思った。ごめん、ちゃんと自分でけじめつけるから」

涼子も下を向いたまま呟いた。
私は涼子のざんぎり頭をさらりと撫でて

「涼子、ちゃんとけじめつけたじゃん。はい、仲直り」

と言って、私は涼子の右頰に口付けた。

「うわあ、きめえ」

と言って涼子は私の左のおっぱいを揉んだ。

「……いつみ前よりおっぱい減ったね。月曜日、いっしょにガッコーいくべ」

まだ首筋が生々しく赤黒い涼子が言う。

「幼稚園以来じゃね?一緒に学校に行くなんて」

なんていいつつ、晴れ晴れとした気持ちで私は両手でおおきく丸を作った。

涼子と別れた後、自宅前に三井岳が待機していて驚いた。私のこと待ってた?もしかして矢萩先生の石、持ってきてくれたの?
三井君はゆっくり頷いて、ハンカチに包まれたアメジストを私のてのひらの上に載せた。

「ありがとう」
「うん、いつみ、お説教でもなんでもないけど、本当に人に取られたら嫌なものは、人前で見せたら駄目だよ」

いつもならうるさいなと突っぱねるところだけど、今は三井君の言葉が身にしみる。
本気で大切なもの、取られたくないもの、自分だけのものにしたいなら、安易に人に見せるものじゃない。涼子も私だって同じで考えが幼稚だった。
わかった。これからは気をつける。
矢萩先生の石、見つけ出してくれてありがとう。ともう一度三井君にお礼を言った。
うんと三井君は頷くと、私がお守り代わりに渡したネクタイを三井君は緩めて、私の首にかけるとネクタイを結んでくれた。 いつみ、深緑のネクタイもよく似合うよと三井君。

「私、生まれて初めてネクタイ結んだ。いつも結び方わかんなくて取っちゃうんだ」

そういうと三井君は優しく微笑んでやっぱりそうか、と言った。ねえ、ネクタイの結び方教えてくれる?と三井君に聞いたら、ゆっくり頷いてから「できるようになるまでいくらでも」と答えが返ってきた。

そういえば、三井君はとっても柔らかくて深い良い声をしている。
どうしてそんな三井君の良い声に気づかなかったのだろう。 手帳に追記する?
ううん、彼の声はこれからも忘れない気がするからわざわざ書かなくたっていいや。
忘れたってまた改めて気づかせてもらえると思うからいいや。

三井君はそうだといって、スクールバックから私のぼろぼろのスカートを取り出して私に手渡した。そうか、私の教室も見られちゃったんだね。机の落書きも見られたのかな。ちょっとカッコ悪い。
ありがとうと伝えるより先に三井君が

「いつみ、偉かったぞ。ちゃんと学校行って、学校でひとりで戦ってて偉かったぞ」

なんていうから、「あ」の口のまま、その後の言葉が出てこなくなった。顔を皺くちゃにして目と鼻から液体を流すクリーチャーの私を、喘ぐことしかできない化け物の私を三井君はしっかりと抱きしめてくれた。

「大丈夫、大丈夫いつみは悪くないよ。俺が肯定してやるよ。お前のことを悪く言う奴いたら、今度は俺が戦ってやるからな、お前といっしょに戦ってやるからな」

溢れてくる液体を留めようと鼻をすすって精一杯上を見上げたら、月齢18.6の月がねえ私綺麗でしょう、私のこと綺麗って言ってよ、ほら早く!と言わんばかりにぷかりと宙に浮かんでいた。 だけど今の私は三井君に月がきれいだねなんて言わない。涙と鼻水を止めるので精一杯で、ロマンスの余裕は一切ない。
「わかった、ありがとう」
と答えるので必死だった。

常々、流行とは恐ろしいものだと思う。そして、女子たちの頭の切り替えの早さも同じレベルでおぞましいと私は思う。
翌週、私と涼子がお揃いの散切り頭、足跡だらけのブレザー、切り刻まれたスカートで手をつないで登校すると、生徒の一人が私たちの姿を眺め、

「パンクって、今キてるわ。すげえ熱いわ」

と言い、彼女は家庭科で使用する裁縫箱の中から裁断ばさみを手にしたのち

「かのこ、いっきまーす!!」

と宣言するやいなや思いっきり自身の髪の毛にハサミを入れた。ばさりと木の床に落ちる黒々とした髪の毛。続いて

「ゆい、いっきまーす!」

別の女子生徒も右手で自身の髪の毛にばっさりとハサミを入れた。

「しおりん、いっきまーす」「のん、いっきまーす」「みちょ、いっきまーす!!」

教室の彼女たちはそれぞれに声高に宣言すると、次々にハサミを手に自身の髪を切っていった。男子はそれを見てどんびいていたが、「パンク・ザ・文明開化」と名付けられたスタイルは私の名前を取って別名「いつみスタイル」とも呼ばれ、クラス中、学年中、学校中で流行し、最近では他校の生徒にも伝染しているようだ。
ざんぎり頭、ボロボロのブレザー、はさみで切れ目をいれたスカートの女子高校生で街中は溢れた。彼女たちはみんな、大声で笑って、飛び跳ねて、女であることがじれったいように、全身を使って自分を表現して街を練り歩いた。
「SEX」と書かれた教科書の代りということで涼子が吹奏楽部の先輩に頭を下げて頼んでまわり、使い込んだ教科書を貰ってきてくれた。
最初、涼子は私の教科書使ってよ、先輩たちの教科書は私が使うからと言ったけど、いやいや、びっちり書き込みしてある方がいいに決まってるじゃん!といって先輩たちの教科書をありがたく使わせてもらっている。
涼子は今、あのアホ眼鏡と別れて世界史の先生と秘密で付き合っている。別れてから付き合うまではっや!
この前、これ内緒ね、と言ってペアリングを見せて貰った。教師と付き合うとかそんな少女漫画みたいなことある?と聞いたらいい女はちゃんと見抜かれるんだよと涼子は笑う。
涼子に女の腐ったような奴が何言うんだよと返したら、頭の腐った奴に言われたくないわと小突かれた。
私たちは今日、ちゃんと友達だった。
「へえ、女ってやっぱり変」
学校での出来事を三井君に伝えると、チョコサンデーのカリカリ部分に取り掛かった。
季節は2月。街はどこもチョコレートの甘い香りでいっぱいだ。三井君って甘党だよね、いままで興味がなかったから知らなかったけど。

「それでなんで俺のデートに真人もついて来てるの」

12月の最終決戦のとき、三井君は私の望み通りアメジストを探しだしてくれたので、伸ばし伸ばしになった約束のデートを三井君としているのだけど、南君にもお礼をしたかったので3人でデニーズに集合してランチをしている。ふたりだけのデートはまた今度ね、と言ったらそういう焦らしが、期待させるんでしょ!と南君に注意された。正直なところ三井君とデートはどうでもよくて、それより今日の南君は一段と可愛らしい。ウイッグの毛先を指で遊ばせながら流し目で言う。
「ねえ私だってご褒美欲しいんだけど。岳と2人でデートしたい」「やめてよ、俺はいつみのことが好きだからデートとかは無理。好きな子いるのに他の子とデートとかしないから俺は。ね、いつみ?」「三井君、申し訳ないんだけど、私はまだ矢萩先生のことが好きだから、ごめんほんと無理」
そうお互いに言い合って、顔を見比べると鼻にしわを寄せて笑った。俺たち全然うまくいかねぇなあと言って笑った。
「俺といつみが結婚したら、『みつい・いつみ』になるんだぜ?回文になっちゃうんだぜ?俺はいいと思うんだけどなー」
三井君の発言で、私ははっと思いつく。頭の左上にピカンとランプがついた。いいこと、思いついた!
「ねえねえ私たち、全員の名前を繋げても回文になるよ!みつい、みなみ、いつみ!すごくない?大発見!なんか三角形みたいな名前」
私は右人差し指で空中に正三角形を描いた。
三井君と南君が顔を見合わせる。ほんと、と頷いてふたりともにっこりと笑ってくれた。
「ほんと、いつみには敵わないよ」
この苦笑いとともに発せられたセリフが三井君のものなのか、南君のものなのか、私には判別ができなかった。

三井君が言うように、生きてくって全然うまくいかない。全然うまくいかないから、だから楽しい。苦しくて、辛くて、つっかえつっかえだけど、だから生きていく価値がある。にがくて、まずくて、死ぬほどの思いをするから、最後は絶対にハッピーエンドにしたい。絶対にハッピーエンドにするって思いながら生きていくんだ。
頭のぶっ壊れている私は矢萩先生が好きで、そんな頭のぶっ壊れた私を眼鏡の三井君は好きで、眼鏡しか個性ないように見える三井君を南君はどうしてか好きで、そうして誰かが誰かに恋をして、そうしてちぐはぐな拡張子で、データをバグらせて上書き保存させながら、トライアングルな関係にドライブかけて、わたしたちは今日も生きていこう。
前を向いて、胸を張って、跳び上がって奇声をあげながら、大嫌いな自分を道連れにして、大好きな自分を見つけるために今日も生きていこう。
背筋をしゃんとして、デニーズの大きな窓から見えるあのソラ色の東京第二電波塔みたいにしゃんとして、威風堂々とわたしたちのこれからを生きていこう。
間違いながら狂いながら思考錯誤して、「汚く、ずるく、たくましく」最後の最後に笑えるように、今日も、生きていこう。
 
(了)

「トライアングル・ドライブ」本編はこちら 
 
南真人(みなみ まさと)編はこちら「ルージュ、7センチヒール、僕のすべてのはじまり」

三井岳(みつい がく)編はこちら
「1メートル先も見えない俺を色鮮やかに照らす光」

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