【メモ】自分自身と向き合うことから逃げることと現実逃避の違いとは?

私は、ある意味は、現実が怖いから、予防線を張るように、失敗しないようにはしてると。言葉の表現としても、断定することを避けたり、「私は」とつけて、個人的見解ですよ、と意味付けをしたりはする。それでも、伝わらない場合はあり、えー ( ´゚д゚`) となることはある。また、曖昧な表現が、気持ち悪い? みたいな評価を受ける可能性は、自覚してるさ。

考えたいこととしては、現実と自分、向き合うことと、逃げることについてか、その違いとは? みたいな。

漠然として、あまり整理が出来ていないが、現実と向き合うことは、心の側面とお金の側面はあるだろうと。自分と向き合うことは、行動に関すること? 人間関係か? で、現実逃避は、ともかく、これは、ゲームやネットや、嗜好食品や云々と。自分の向き合うこと、これは、内省と他者からのフィードバックになるのかな? 内省は、万華鏡として、他者からのフィードバックは、不思議な鏡か。誰からのフィードバックなのかは、大切であると。例えば、自分からすると尊敬できない方からのフィードバックは、そのような値として、みる必要だし、尊敬できる方からのフィードバックであれば、大切にすべき? なのかな。

しかしだ? そもそも、何のために? 現実や自分に向き合うのだろうか? 幸せになるため? としても、何かファジーだね (´-ω-`)

自分の悩みを減らすために、自分に向き合うのか? 快適に暮らすために? ん (  -_・)?

現実と自分の関係、そりゃ? 自分が想定する現実は、空想か妄想で、現実とは、自覚するものか。しかし、自覚は、自分自身しかできないだろうと。他者と比較することでもないはずで。

私は、なんか、修行するように、自分自身を自覚したいとか(現実逃避は、あまりしたくない?)、考えているのだろうか? 現実逃避が悪いわけではないはずで。

要は、恐怖心を減らすには、どうしたら良いのか、か。人間関係が基本のはずか? 🤔

他者からのフィードバックの問題か、しかし、SNSの野良でフィードバックを頂いたとしても、事柄としては意味はあるが、本質的な意味は、ほぼないだろうと? そもそも、自分で気づくことか。

自分で気づくことだな。。。 それだけか。

追記…φ(・ω・`)

ある意味は、漠然と何かを考えると何かわかっていないという盲点が生まれると。つまり、ここでは、考えなければ、よいのかもしれないが。しかし、考えずに、ゲームや動画をみて気分転換だとは、それも一理あるが、現実逃避といえば、現実逃避(悪いわけでもないし、そもそも、現実逃避という語彙は不適切かもしれないが)。

さて、歩きながら、さらに考えるかな。。。