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流れゆく性と生

※この記事ではジェンダーについて言及しています。
私自身、できる限りジェンダーへの理解を深めようと日々勉強していますが、まだまだ十分とは言えないため、もしかすると無意識の偏見ゆえ文中に不適切な表現があったり、誤った情報があるかもしれません。
その場合は不快にさせてしまったことをお詫びすると同時に、該当箇所についてご教示いただけますと幸いです。


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主に9歳から12歳にかけて、本気で男の子になりたいと思っていた時期があった。

9歳頃の自分と言えば小学校入学前の無根拠な自信が消え去って久しく、同級生とも教師とも自ら距離を置く面倒極まりない子供だった。
「ガイジン!」って言ってきた同級生も、一ミリも泣いていないのに「かわいそうに!泣いちゃったじゃないの!」って見当違いな諫め方をする教師も好きになれなかったし、まあそれは多分今も同じだろうけど。

ある日、何故かは覚えていないが私の着る服が見当たらず、急いでいたのもあって致し方なく兄のおさがりを着ることになった。
忘れもしない、赤地に黒い英字プリントの入った男児向けデザインのトレーナー。
自分の見た目なんて好きでも何でもなかったが、ぶかぶかのトレーナーを着た自分を鏡で見た時、何故かとてもしっくりきた。
陰気でうつむきがちな自分にとって、それは頼もしい甲冑にすら思えた。
そしてこの時から、「男の子になりたい」と強く思うようになった。

その日を境にスカート類は一切履かなくなり、お下がりだけでなく新しい服を買いに行くときも男児向けの服をねだった。
バカみたいだけど、少年らしい姿を続けるしか男の子になる道はないと当時は本気で思っていた。
声も意識的に低く出すようにしていたら、見ず知らずの人と話す場面では「坊ちゃん」と呼ばれるようになった。
それは、当時の自分にとって最高の誉め言葉だった。

眠りにつく前は、いつも「目が覚めたら男の子になっていますように」と強く願った。
体が女性的な成長を遂げないように、なるべくうつ伏せで寝るようにした。
だけど、何度朝目覚めても自分の体に決定的な変化が起こることは無くて、その度に泣きながら暴れてしまいたくなるのをぐっと堪えた。
「この体を着ぐるみみたいに脱ぎ捨てて男の子の体になれたらいいのに」と考えたりもした。

近所に住む知人に「性同一性障害なんじゃないの?」と笑われた時は、子供ながらにとても嫌な気持ちになったことを覚えている(ちなみに性同一性障害は2019年に「精神障害」から除外されている)。
と同時に、あの時横にいた母は何を思っていたんだろうかと考える。

元々、母がバレンタインデーに父や兄のためにチョコを買うのを見て「どうして女の人だけがあげなきゃいけないの?」と訊いたり、小学校1年生の時にクラスの女子の9割がピンクのピアニカを選ぶ中で水色のピアニカを選んだりしていたので、「この子はそういう子だ」という認識はあったように思う。
それでも、「本当に本当に男の子になりたい」という思いだけは親にさえ言ってはいけないような気がして、いつも一人で抱えていた。
しかし母は薄々気付いていたのか、「女の子らしくしなさい」といった類のことはほとんど言われた記憶が無い。
色々と厄介なことも多い家庭だったけれど、その点に関しては感謝している。

男の子になりたいと願いながらいつくかの夜を越し、やがて中学生になる頃、巷では「前略プロフィール」なるものが流行り始めた。
縦長のプロフィールページには名前、性別、年齢、好きな食べ物等々を入力する欄があり、今思えば「知らんがな」としか言いようのない個人情報を多くの若者が嬉々として全世界に公開していた。

中1の夏、部活の遠征があることを口実に携帯電話を手に入れた私は、同級生たちの前略プロフィールを何の気なしに眺めていた。
その中に、ヴィジュアル系(以下、V系)が好きな同級生の前略プロフィールを見つけた。
その子の性別欄には、女性でも男性でもなくこう入力されていた。

「性別:♰中性♰」

これは、いわゆるバンギャ(主にV系が好きな女性の呼称)の間では当時お決まりの性別表記で、化粧を施してスカート等を纏うV系バンドマンのジェンダーレスな出で立ちに惹かれる彼女らが、同一化を望む気持ちから「♰中性♰」を自称していたように思う。

中には本当に性自認が中性だという人もいたかもしれないが、多くの人はそうではなかったと思うので、この表記にはクィア・ベイティング(実際にはそうではないのに性指向や性自認の曖昧さをほのめかすこと)的な要素が少なからず含まれているよなあ、と今となっては感じる。
ていうか、これを前略プロフィールに表記していたほとんどの人にとっては消したいくらい恥ずかしい過去なんじゃなかろうか。

それでも、初めて「♰中性♰」を目にした時、私は驚きとともに視界がぐっと広がったような、心がフッと軽くなったような感覚に包まれた。
その頃の私は、一時期ほどの「猛烈に男の子になりたい」という気持ちは持っていなかったものの、やはり自分の生まれ持った性にも違和感があった。
そんな時に出会った「♰中性♰」という表記は、どっちつかずな性自認を持つ私の腑の中に軽快な音を立てて落ちた。

ただ同時に、前述したクィア・ベイティングの要素も当時は言語化できないながらも感じていたこと、そして生来の捻くれた性分から、自分の前略プロフィールをには明確に「♰中性♰」と表記せず、もう少しこねくり回した表現にしていたような気がする。

ひとまずの落としどころを見つけてからは、不思議とスカートに対する抵抗感も薄れ、高校を卒業することには私服でロングスカートを履くことも増えた。
20歳からの数年間はずっと短くしていた髪を伸ばし、(あくまでも自分基準ではあるものの)かなりフェミニンな装いも度々するようになった。

ただ、フェミニンな装いをある程度続けると突然激しい嫌悪感に襲われ、衝動的に髪をバッサリ切って服装もマニッシュに戻した。
これを何度か繰り返していた時期は、「自分は一体どう在りたいのか」がいつもに増して分からなかった気がする。

この迷走の原因について色々考えてみたところ、当時言われたいくつかの言葉が思い出された。
それは、「絶対スカートの方が似合うのに」「絶対髪を伸ばした方がモテるのに」というもの。

こんな風に言われると、まるで髪を短くしてパンツを履いている自分は「不完全体」で、髪を伸ばしてスカートを履いた自分こそが「完全体」なのだろうか、と思ってしまう。
自意識と他人の目との間に挟まれて、私は地獄の反復横跳びを繰り返していた。

もちろん、「私が迷走したのは全部お前らのせいだ!!」と言いたいわけではないし、言った当人もそこまで深い意味を込めて言ったわけではないだろう。
そもそもモテたくて髪を伸ばすこともスカートを履くことも別に悪いことではない。
それでも、上に挙げた言葉は場合によってはかなりの呪力を発揮することをここに述べておきたい。

このように、自分の性自認について十余年の間密かに悩み続けた私だったが、今では「ノンバイナリー」だと自認するに至っている。
ノンバイナリーとは、自分の生まれ持った身体的性に関係なく、自身の性自認・性表現に「男性」や「女性」といった枠組みをあてはめようとしないセクシュアリティのこと。
ちなみにノンバイナリーとはあくまでも「性自認・性表現」なので、ノンバイナリーと一口に言っても恋愛対象は異性、同性、両性さまざまである(余談だが、ジェンダーについて学んでいると性自認と性指向を混同している人がかなりの数いることに気付く)。

ノンバイナリーと訊くと記憶に新しいのが、2021年に宇多田ヒカルが「自分はノンバイナリー」だと公表したことだ。
この公表にネット上では賛否さまざまなコメントが上がったが(そもそも人の性自認に賛否があるのがどうかと思うが)、私は正直全く驚かなかった。
というか、かなり腑に落ちた。

これはかなり個人的な意見だが、宇多田ヒカルの作る楽曲にはいつも「少女性と少年性」と「女性性と男性性」が共存しているような気がして、そこに私はいつも一方的な共感を抱いていた。
だから宇多田ヒカルがノンバイナリーだと公表したことにも全く驚かなかったし、こういう言い方が正しいかは分からないけれど嬉しくもなった。
「♰中性♰」に出会った時の何倍も視界が広がって、心が軽くなったような気がした。

2022年現在、私はパーマがかかった髪を長く伸ばしているが、これは女性らしさとか男性らしさとは全く関係なく、ただ80年代風の髪型にしたかったから。
服装は、基本的に夏はTシャツとパンツ、冬はスウェットとパンツが多いが、年に1、2回はスカートを履くこともある。
色々悩みは尽きないにせよ、服装表現に関しては今の自分が一番しっくりくるし、一番イケてると思っている。

とはいえ、人との会話の中で「私はノンバイナリーです」と言ったことは今の所ほぼない。
それは「話の流れ上言う必要が無いから」というのもあるが、言ったことで相手に難色を示されたり、「でもあなたは女でしょ」と言われたらちょっと嫌だな、という思いが少なからずあるのも事実だ。
この記事を読む人の中にも、「こいつ面倒くさいこと言ってら…」と思う人がいるかもしれない。

ただ、個人的にはそれでも良いと思っている。
誰にだってどうしても受け入れがたいことや理解できないことはあるし、もちろん私にだってある。
だからと言って頭ごなしに否定したりはしないし、反対に「良いと思うよ!!!」と過剰に肯定するのもなんか違うよなあと思うので、「そういうものもあるよね」と心の中に留めておくように努めている。

極端な例えだが、すれ違う人に一々平手打ちしたり、握手を求めたりする人はいない。
それと同じように、誰がどんな性指向でも、性自認でも、国籍でも、肌の色でも、一々肯定したり否定したりせず、ただ共存できる世の中になれば良いなと思う。
そうして幸せになれる人が一人でも増えるといいな。

長々と書いたけど、最後はこの言葉で締めようと思う。

「私は好きにした。君らも好きにしろ」
(『シン・ゴジラ』より)

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