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『喧嘩』のエロティシズム

文字喧嘩界隈に於ける喧嘩とは,俗に言う――暴力的で非理性的な――喧嘩のみを指すものではない。
自論の論理性,レトリックの巧拙,立ち回りの巧さなどを相手と競う知性的な側面もあれば,人間という生物に潜在する闘争本能を言語によって掻き立て,また発散する生理的な側面も持ち合わせた,まさしく人間と表裏一体の娯楽である。その様は虫媒花に近い。

官能的なフェロモンで野原を飛び回る虫たちをいざない,花弁の上で蜜を争わせる。普段は温厚な虫たちが、我を忘れたように相手の腕を噛みちぎり、触角を折り、花から振り落とす。そのときだけは互いに憎しみ,怨む不倶戴天の仇敵となる。しかし蜜を吸えば何事も無かったかのように何処かへ飛んで帰ってしまう。勿論、他の何処かで再戦するようなことはしない。蜜は無尽蔵に湧いて出てくるので、これらは繰り返される。
傍から見れば狂気の沙汰である。ただ,彼らの互いに抱く感情はあくまでも一時的で表層的な思念に過ぎないだろう。本心からの憎悪は極稀である。これについては一考の余地があるので,今度の機会にでも話そう。

にしても,我,思う。
他者を言い負かすことで得られる優越感ではなく,喧嘩という本性の応酬から垣間見えるエロースにこそ真の価値があるのだと。
優越感は自己とそれ以外の他者の比較が前提である。つまり,他者が居なければ優越感も存在し得ない。その点,優越感とは他者に依存した情感だと言える。ただし,外的自己と内的自己の優劣はこれに留まらない。
それに対してエロースは,必ずしも他者を必要としない。畳,電柱,テレビ,スマホ,果ては自分にすらエロースを発見することができる。そういう意味でエロースは我々に最も身近な概念であると言える。

このように,優越感は比較を前提とした相対的快感であるのに対し,エロースは「それ単体」で成立する絶対的快感である。
また,相対的快感は比較を礎として感覚するため,比較対象である他者の社会的進化などによる自己と他者の立場の逆転というリスクを回避できない。なのでそこには必ず,逆転のショックからのストレスによる現実逃避など精神を病む危険性が付随してくる。
対して絶対的快感は比較を必要としない上に,対象物と自身の感覚の中で完結するクオリアであるため,外部環境の変化にそこまで影響されない。

確かに,カント哲学の〔対象は認識に従う〕という観点から,知覚した対象すら自身に於ける現象であると捉えることができ,そういう意味で,相対的快感も絶対的快感も全て自己の内側で完結していると言うことができる。しかし,相対的快感の裏には両手にマスケット銃と胸にルサンチマンを抱えた劣等の民衆が革命の機会を窺いつつ潜伏している。我々にはそのリスクを克服することが不可能である。だからこそ,相対的快感よりそういったリスクの心配がない絶対的快感の方が優秀で,より価値があると言えるのだ。

人は常に優劣を付けたがる動物であるし,喧嘩は他者との関係を前提とするコミュニケーションの一種であるから,相対的快感の排除はきっと叶わない。人間にはそれがお似合いなのかもしれない,とも思う。
ただ,そう分かっていても私は,文章中の些細な表現,熟語,論理に潜むエロースの追求を前提としたエロティシズムの喧嘩,更に言えば「芸術作品としての喧嘩」の流行をついつい夢見てしまうのである。

もうこの記事で話すことはない。このしがない喧嘩師の理想の独白が喧嘩師諸君の意識に少しでも刺戟を与えることができたのなら,物書き冥利に尽きるというものだ。






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