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【生い立ち②】スラム街生活&親父の猛追

皆さん、お久しぶりです!
一瞬NOTEを書くのめんどくさいなと思ったがやっぱりもう少し続けようと思ったひかるです。

さて皆さんは元気にしていましたでしょうか?

私は長野でのんびり生活&仕事しながら生きています。今はGWということもあって帰省し、今は友人の家でNOTE書いてる状況です。
今夜は私の生い立ち第2話をお話ししようと思います。(第1話については下記をご覧ください)


ということでひょんなことから(だいぶひょうんなこと)私と母と嘘父と義理の姉で4人での生活が始まった。

もうねー、日本じゃ考えられないような生活(もはや珍道中という表現が正しい)が繰り広げられる訳で、約1年半の間に様々な事件が起きたんですよ。

気になる事件から覗いてみてね!笑

頭かち割り事件

まずフィリピンで生活して一番最初の事件は「頭かち割り事件」。

文字通り自分の頭を他者にかち割られました。

どういうことか?

あるとき家の前の道路で遊んでいたときに、たまぁにお世話になっている中学生くらいの女の子が来て、一緒に遊ぶことになった。

しばらくすると「あなたのこと大好き」って言いながらいきなり抱きついてきて、そして抱っこして俺を持ち上げたと思ったら、いきなり逆さにして、頭から俺を地面に落としたのよ。

シンプルに思った。
意味が分からない。

なんで抱っこしたのか、なぜ逆さにしたのか、なぜ地面に俺を落としたのか
意味がわからない。

めっちゃ痛いし案の上、血がダラダラ出るし、中学女子逃げるし、意識が朦朧としながらお家に帰った。

ちなみにもし自分の子どもが血まみれで帰ってきたら皆さん救急車呼びますよね?

母は呼びませんでした。

えぇーって思うでしょ?

実はフィリピンならではの事情があったわけで、、、
フィリピンではタクシーと同じように救急車呼ぶのにお金がかかる場合があるのです。(日本では搬送料は税金で賄われているけど、フィリピンではそうではない)

なので貧乏の家であったことから呼ばれずにひたすら頭を押さえつけられ、結果的に今でも細胞が死んでいることから一部禿げている。
ちなみに禿げている部分が日本列島みたいな形になっていることから小学校時代の一時期のあだ名が「日本列島」。

お皿忘れスリッパー叩かれ事件

続いてご紹介するのが現地の小学校に入学して間もなく起きた事件。

フィリピンの公立小学校の給食制度ってとても面白いんですねー(20年前の自分がいた学校の話だから今は分からない、、、)

購買所みたいなところがあって食べ物がバイキングみたいに置いてあるんだけど、食べたいものを家から持ってきたお皿に取って、最後に取ったものの品目を確認して支払うっていう感じ。
なので学校に必ずお金を持って行かないとご飯が食べられない。

お金は少額ながら毎回持っていったけど、肝心なお皿を毎回持ってくるのを忘れてしまうわけなんですよねー、、

それがなんと5日間連続で、あほです。

でも面白いのがお皿を忘れた時の罰の仕方。

手を出せと言われて素直に手を机の上に出し、そしたら先生が自分のスリッパーを脱いで思いっきり、俺の手を5回ほど叩くのよ。

シンプルに思った。
意味が分からない。

なんでスリッパーで叩くのか。
しかもペラペラのスリッパーだからそんなに痛くないし。

って思いながら5日間叩かれ続けていました。

トランプ血まみれ男事件

続いてご紹介するのが「トランプ血まみれ男」です。

スラム街に住んで約3ヶ月ほどが経った頃かな?

スラム街でできた友達と知らない人の家で「トムとジェリー」と「ポパイ」をみた後に駄菓子に行こうとすると、道端でトランプゲームをしているヒョロヒョロのお兄さんと刺青が入っているガタイの良いお兄さんがいた。
彼らの横を通り過ぎ駄菓子屋に行き、チョコレートが入っているロールクレープ(これが本当に美味しい。ぜひフィリピンに行く際は買って欲しい!)を買って食べながら帰るとガタイの良いお兄さんが頭から血まみれになって倒れていた。

えっ、抱っこされて逆さから地面に落ちたの?
って一瞬、俺の経験値から真面目にそう考えた。

野次馬に聞くとトランプゲームでずるした・してないで揉めたらしくヒョロヒョロのお兄さんがコンクリートブロックで相手の頭を割ったらしい、、、
(今考えると明らかにあいつの目はキマっていた気がする)

結局お金もないから救急車も呼ばずそのまま帰り、警察が来ると面倒だからって誰も呼ばなかった。

今考えると実に面白い世界観であった。

親父の猛追&さらば母よ

そんなことから不思議なスラム街生活をした1年半。

一方で父は必死に俺を探していた。

診療所から帰宅すると家には暗く誰もいない冷たい空間が広がり、明かりをつければ家のあちこちに物が散乱していた。
当時の父の気持ちを今考えると心が痛む。

そして父によるひかる探しが始まったのである。

どのように探していたのか分からないが、なんとなく俺がフィリピンにいることが分かると、診療所を経営しながら月2、3回ペースでフィリピンに来た。

フィリピンで弁護士を雇うとひかるの親権裁判がマニラで開かれた。

当然フィリピンで裁判をしている訳だから当然日本人の父は不利であった。
しかし父の証人として多くの友人を召喚すると少しずつ父に対する評価が上がった。
(アメリカ海軍で空母の医務大佐をしているアメリカ人や秋元康さんを患者として持つ親戚のおじさんなどがわざわざフィリピンまで来ていた。すごいメンツである)

結局父が裁判に勝ち、私が18歳になるまでお金を毎月母に送るということに決着したことで日本に帰れることになった。

帰国当日。

私は空港で母とお別れをした。
何がともあれ6年間ずっと一緒にいた母であったことは変わりない。
大号泣した。母と別れたくなかった。

でも日本に行かなければならない。裁判で父が勝ったから。

なんで日本に行くんだろう。なんで母と別れなければならないのか。

そう思いながら窓外にある翼をずっと眺めていた。


あれから20年。母親とは未だ再会していない。


次回予告!

「父との充実した小学校生活」

見てね〜!


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