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Fさんの表と裏

前回のノートより。
私はA君より息子の教育や夢をとって
Fさんを選んだ。

勉学好きのFさんは、息子の障害について
とても勉強熱心だった。

子育てにも協力的で、
車で1時間程の道のりも
送り迎え等を手伝ってくれた。

本格的に、結婚を考え生活保護を抜け、
Fさんが住んでいる土地に引っ越した。

仕事は忙しそうだったが、相変わらず紳士的であった。

がしかし、朝まで家に帰らないという日々が多かった。経営者という仕事上、飲みの付き合いだと言っていた。

少し不満だったが...息子の教育において
何一つサボる事は無かったし
私の夢についても応援してくれようとしていたので文句は言わなかった。

Fさんとは21歳も歳の差があったが
趣味も合い、考え方が意外と昭和ではなく、
母親も休む日が必要であるという考え方の持ち主であった。その為、息子を泊まり療育に預けて遊べる日を作ってくれたりもした。

療育先の先生で息子にゾッコンだった先生がいて
御法度だが、息子を預かってくれた事もある。
ご夫婦共に息子を本気で愛していたと思う。

ただ困ったのは、お菓子やジャンクフード等
あまり教えて欲しくない事まで甘やかしてきたので、後にそれが大変になった。

Fさんの話に戻るが、彼はとても顔が広かった。
知り合いのお店に行き、婚約者だと伝えると
皆、驚いていた。一生涯結婚はしない人。
遊び続ける人飲み歩く人と思われていた様だった。だがそれと共にとても信頼され、誰とも上手く付き合える人という印象が大きかった。

Fさんは4人兄弟の長男で、妹以外は皆、経営者をしていた。お父さんは既に亡くなっており、お母さんがいた。

Fさんのお母さんはちょうど80歳くらいだったと思う。女性も働くべきだと考える人で、言い方は悪いがかなり性格が悪かった。

勝気な人で、ご挨拶に伺った時も息子の障害について説明をすると可哀想だ。母親の責任だと言われたり、掃除一つにしてもFさんに頼まれて置いた物を何故こんな場所に置いているんだとか、
だだっ広い家で外に倉庫なんてある事は知らなかったがなんで箒の場所も知らないんだとか、とにかくこれみよがしにいじめに遭った。

よくアニメや漫画で見るような
埃を指で確かめるような人だった。
それでも好かれようと努力した。

母の日には絵画が好きなFさんのお母さんの為にエコバッグを買ったり息子と制作した物を渡したが、息子の作ったものは受け取ってくれなかった。

Fさんに話せば、そんなのうまくやってくれよ。忙しいんだから。だけだった。
紳士な人はいなくなっていった。
かわりにいつもいつも文句ばかりだな。
と言われるようになった。
Fさんと私の口論は多くなった。
別れた理由はもっともっと重大な事だが
それは次の話で書こうと思う。

Fさんはよくお母さんと口論になる事が多かった。私はそれをただ早く収まらないかと眺めていた。

その頃からだろうか。
昔の父と母が口論をするのを思い出すようになった。

小さな物忘れが
私の中で増えていった。
これが解離性障害と繋がるとはその時は
更々思ってもいなかった。

夜になると息子が眠り、
Fさんが帰らない広すぎる家でひとり。
屋上で星を眺めるのだけが
私のひとときの安心できる時間になっていた。



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