死について考察する4/n(カンガルー・ノート) : わんだろうより、親愛なるセネカ師匠へ

安部公房『カンガルー・ノート』。
ある朝突然、《かいわれ大根》が脛に自生していた男。
あわてて受診したが、そこから意に反してベッドに括りつけられ、旅が始まる…

死について書こうと考えたとき、実は最初に思いついた文学作品がこれだった。結末近くのこの描写にゾッとしたのを覚えていたので。

箱が窓の下に据えられ、ランニング・シャツの一群が、ぼくを窓から引き下ろそうとする。濡れぞうきんのように丸め、箱の脇から追い込もうとする。
(略)
箱はただのダンボールではなかった。硬化プラスチックなみの粘りと堅さ。
正面に覗き穴があった。郵便受けほどの、切り穴。
覗いてみた。ぼくの後ろ姿が見えた。そのぼくも、覗き穴から向こうをのぞいていた。
ひどく脅えているようだ。
ぼくも負けずに脅えていた。
恐かった。

「脛にかいわれ大根」「覗き穴からみた自分の背中」は強烈な印象で、ずっと記憶にのこっていた。
全体にコミカルだけど奇妙な夢の中のような不気味な雰囲気と不条理さは、ぼんやりと。

久しぶりに再読して、死に行く人の、完全に一人称の語りだなと。ただ、トルストイ『イワン・イリイチの死』とは異なり、自分の人生を振り返ることはほとんどない。そして、恐怖や戸惑いはあるが、後悔や心残りはないように見える。賽の河原は出てくるが、宗教的な体験も描かれない。非常に「個人的」な世界だと感じた。
自分が生まれて死んで、以上、終わり、みたいな。

なにかに似ていると思ったら、三島由紀夫『命売ります』の印象に近い。突然、生の無意味さに衝撃を受け、死など何ものでもないと考えた主人公だったが、いざ危機に陥ると死を恐怖し始めるという…

『仮面の告白』『金閣寺』等だけではない、ミシマの傑作『命売ります』は、1968年「プレイボーイ」誌に掲載。いわく「スリラー漫画」風、ということだけど、軽妙な語り口ながら、無意味な人生をどう生きるか(もしくは生きないか)を切実に描いていると感じた。

すると読もうとする活字がみんなゴキブリになってしまう。読もうとすると、その活字が、いやにテラテラした赤黒い背中を見せて逃げてしまう。
『ああ、世の中はこんな仕組になってるんだな』
それが突然わかった。わかったら、むしょうに死にたくなってしまったのである。

安部公房1924年生まれ、三島由紀夫1925年生まれ。
第二次世界大戦敗戦時に二十歳前後だった、という時代背景が、この極度な個人化に影響しているのか?

自分ひとりですべてを抱えて生きる・もしくは死ぬのは、あまりに大変すぎるし孤独だ。それこそ、カンガルーのように進化の袋小路に入ってしまうのではないだろうか。

ありきたりだけど、「自分」というのはべつに大したものではなく、次の世代までのつなぎだと思えるかどうか。落ちている石を拾って、少しでも先へ投げる。それをまた次の人が拾って投げる… そして善い世界に向かえればいいと思う。
石を投げる力がなくても、投げる人を応援することはできるし、方向を指し示すこともできるだろう。

最後にセネカ師匠の言葉を。『心の平静について』より。


運命のせいで君が国政の第一線の地位から排除されるようなことがあろうとも、なおも踏みとどまり、叫び声で助勢すべきだし、誰かが君の喉を締めつけるようなことがあろうとも、なおも踏みとどまり、沈黙で助勢すべきなのである。善良な市民の働きが無益であることは決してない。聞かれることで、見られることで、表情で、頷きで、物言わぬ頑強さで、歩みそのもので役に立てる。


ただちに生きよう。お元気で。

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