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坂本龍一の追悼番組を視聴。幸福とはなにか考えた【後編】

前編からの続きです。
故・坂本龍一氏の追悼番組をみて、結果、幸福ってなんやろなと思った件について。

いま、ウェルビーイングとかさかんに言われていて、幸福を数値評価するみたいな研究もあるけれど。(数値評価ぁ?ふざけんな。と個人的には思っている。)

ぶっちゃけ、「幸福だと感じる」だけなら、脳に電極をざっくり刺して、幸福だと感じる部位を刺激すればいいだけじゃん。超簡単よ。あるいは多幸感を得られる薬物を持続投与するとか。(かの名著SF『ハーモニー』(伊藤計劃・著)の世界観ですな)

べつに(少なくともわたしは)それを求めているわけではない。そもそも幸福って結果とか目標ではないし、たまたま(本人だけに)ちらっと見える(ような気がする)ものだと思う。今のところ。

で、わたしにとって幸福だと"感じない"こと、いちばん嫌なことはなにか。
「人が決めたことを押し付けられること」「自分が自分で考えて決めること・それを実行することを妨げられること」だな、とあらためて把握した。
だから、早く(物理的にも経済的にも)親離れしたかったんよ。というのは置いといて。

逆に言うと、いわゆる〈自己決定権〉〈自己効力感〉を大事にしていて、それを損なわれるとひどければ暴れたりキレたり(いや大人なんでほとんどやりません)、表に出さないまでも落ち込んだりする。
いま、自己決定権、とは簡単に言ってみたものの、それってほんとに自分で考えたの?ということが多々あることは容易に想像できる。
「それ、君が考えたんか」(板尾創路さんのギャグ…)ってやつね。

昭和の時代であれば、親や親戚、教師などの意見。テレビのコマーシャル(昔はCMではなくコマーシャル言うてた)。世間の常識、流行などに大なり小なり影響されている。あと、「サブリミナル効果」とかも流行ったな。
現代は、上記のものに加え、ネット経由で利用者の意思決定に影響を及ぼすアルゴリズムは完成しさらに発展しつつある。悪気なく使われがちな「ナッジ」も無意識を操る怖い奴と言える。

お店に買い物に行っても、行動経済学に基づいて陳列された商品から、店側が売りたい物を選ばされるし、逆に「これはこういう意図がある、だからその手には乗らないぞ」と思って本来欲しかったものでないものを選ぶ、なんてのも結局システムに振り回されているのは同じだろう。

自分で決めることが難しいのではなく、「自分で決めた」と自信を持って言うことが難しくなっているのだ。
でも、最後に決めるのは自分しかいないのだから、それでいいのだ。
システムにすごくおすすめされて選んだとしても、最後にポチッとするのは自分。
まあそれに、たぶんヒトの脳は「ポチッてしたんだから、自分で決めたんだ」と遡って納得する仕組みでしょうし。(身も蓋もない)

でもね、やっぱり最後の砦というか、最後の「ポチッ」、やるかやらないか。この、いま思いついた言葉を言うか言わないか。その積み重ねでその人の人生・人格ができてると思うの。だからこの一瞬一瞬、なにかのリアクションにすぎないとしても、考えて選んで行動する。そして行動の結果を自分にきちんとフィードバックして(つまり反省して)善いリアクションができるように努力する。
でも、嫌なことはやらない。なるべく。
これが今のところのわたしの解。

最後に、結局【前編】の思考実験はどうなったのか、について。
わたしは、相手との関係性による、と考えました。
生き残った自分がそれをいったんは良しとしても、一生「あれで本当によかったのか」とずっと悩み続けると思うから。
生きるっていろんな後悔を少しずつ抱えていくことなのでしょうか。おセンチ(死語)になってしまったわ。

お読みいただきありがとうございました。


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