見出し画像

"落ちそう"な人に足場を。

『落ちそうな人』

いつからそう呼んでいたかわからない。
今でもこの表現が適切なのかがわからない。

でも、いつも目につくのは『落ちそうな人』なのだ。

********

最初に『落ちそうな人』に出会ったのは高校の部活のとき。

みんな部活(バドミントン)が好きで、向上心があって、素敵な同期や後輩、先輩たちだった。運動部で県でベスト4に入る実力があるのに、部活の運営はあくまで生徒。よく、インハイなどで活躍する部活は顧問のトップダウンで運営されることが多いが、私の部活では練習内容もペアも生徒が全て決めていた。その分、団結力も仲の良さも他の部活より優っていたように思える。しかし、本当は顧問の先生が担う仕事を生徒が担い、負担が大きい。ペア同士の不安や悩み事も全て生徒で解消しなくてはいけない。そして私はその部活の部長だった。

小さないざこざで人間関係は希薄になったり、亀裂が入ったりする。それはスポーツの中だと顕著だ。ペアの子と目が合わない、プレー中なんだかイライラしているのが伝わってくる、なんだか今日はモチベーションがわかない。ペア同士の少しの雰囲気の悪さがプレーの流れを変えて、一気に負けることはよくあることだ。部長として一番気にかけたのは、ペアや部活全体の雰囲気の良さだ。どれだけ、気持ちよくバドミントンができるか、どれだけペアのことを信頼できるか、そのためには何をすべきか。弱い頭で必死に考え、悩んでいる子がいたらすぐに駆け寄れるように常にアンテナを張っていたような気がする。少しでも、普段より表情が暗かったり、声がでてなかったらその子は"落ちそうな人"と認定し、声をかけた。どこから落ちそうなのかというと、みんなで頑張るとか、インハイに行くとか、部活の"レール"から外れそうな人たちのことだったような気がする。

私は部活でできたことなど微々たるもので、もしかしたら声をかけたり、試合後にメッセを送ったりしたことは無駄だったかもしれない。そんな手助けただのエゴで自己満だった死ぬほど思ったし、それでもやらないといけないような気がした。

****

人生から"落ちそう"な人が多いなと思う。肌感だけど。
それは大きな転落ではない。今すぐ、その人が死ぬようなことでもない。でも、確実に受け皿を作らないと生きづらさが蓄積し、死にいたるのではなかろうかと感じることがよくある。

人は「助けて」ということが難しい。ということを先日学び、確かになと納得した。SOSっていうのに体力がいる。頑張って勇気を出して「助けて」といっても、「ごめん!今日は仕事だから!」で断られてしまったら、もう終わりだ。助けてももらえないし、断られた時のショックも大きい。だったらもう助けてなんて言いたくない。私も痛いほど身に覚えがある。

そういえば、部活のときもそうだった。誰も、相談に乗ってくれとは言わなかった。みんな何かしら試合やペアに対して不安を抱えていたのに、それを声に出して「なんとかして」とは言わなかった。

SOSは目に見えない。
だからこそ、あなたの大切な人の表情が曇っていたら、おいしいものを食べに行ったり、公園などに連れて行って欲しい。無理に悩みを聞こうとせず、「大丈夫だよ」と言ってあげて欲しい。もし、しんどそうならば背中をさすってあげてほしい。人生から"落ちそう"な人の足場になって欲しいし、自分自身もそうありたいと思う。

****

高校のとき、あれだけアンテナを張っていたのに、私は失態を犯した。

高校三年のみんなでの最後の練習の日。同期の女の子が「もうちょっと見て欲しかった。」と悲しそうな顔で言ってきた。

もう少し、自分に俯瞰的に見る目があったら彼女の苦しみに気づいてあげれたかもしれないし、もっとよりよい部活の時間を提供できたかもしれない。ほんの些細なことかもしれないが、彼女にとっては大きなことだったかもしれない。

大切な人がもうこれ以上小さな絶望を重ねないように、落ちないように、微力ながら足場を作っていきたい。

サポートありがとうございます😭❤️サポートは本を購入したり、休日にカフェでゆっくり心の回復をするのに使わせてもらいます🙇‍♂️