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12月13日

娘のランチ。彩り鮮やかなベーグル。この間も電話で来年のサンクスギビングデーかクリスマスは一緒に過ごそうねと約束した。

娘は小学生高学年になると自分のライフプランを話してくれた。ニュースキャスター志望だった。まずは地元の新聞社に入り、そこから地元のテレビ局に入って最後はCNNなどの大きなテレビ局に入るという私なんかには思いつかない壮大なプランだった。そして中学に入ってからは、ファッションに興味を持ち有名なファンション誌の編集者になりたいと言い出した。その流れだったか記憶が定かではないけど高校に入ったばかりの頃、自分でブランドを立ち上げようとしている女性のインターンとしてアルバイトに通った。その女性の作業場のあるところがサンフランシスコでもちょっと危ないエリアだったので私は心配でまず最初の面接に同行した。娘も私に賛成して欲しい一心で同席を許してくれた。今、思えば子供のバイトの面接に行くなんて過保護にもほどがあるかもしれないがカフェでの面接で私は挨拶だけして二人の会話を聞いていた。その女性のところは1、2年通い彼女の作っているパジャマにボタンをつけたり、オンラインで細々と売っている商品の梱包をしたりしていた。楽しそうに通っていたが学校が忙しくなり、バイトは辞めてしまったが何年か経って大手量販店で彼女の商品が扱われるようになったと娘から聞いた。

高校に入ってすぐの頃に娘はサンフランシスコの近代美術館MOMAに通い出した。私の以前の勤務先がMOMAに土地を提供していた関係か何かで2名分の無料入場券がいつでももらえたこともあり、私も毎月訪れた。娘はある写真展に訪れてライフプランが変わった。「私キュレーターになりたい。」私はキュレーターという言葉を娘から習った。娘はまずその写真展を企画したキュレーターの名前をGoogleした。そしてその後がすごいのだがその人に直接Eメールを書いた。おそらくこういった内容『私はあなたの写真展にとても感銘を受けました。あなたのようなキュレーターになるにはどういう大学に進んで何を勉強したら良いでしょう?』ここまでならまだよくある話かもしれない。その当時MOMAのキュレーターだった方はどこの誰かもわからない私の娘にすぐお返事をくださった。その返事の中には彼がお薦めするアートヒストリーを学べる大学のリストなど細かく丁寧に書いてあった。娘はそれを参考にして私達の大学巡りの旅が始まった。私は娘にあげる家と財産や大きな宝石は持っていないけど学歴だけはどんなことをしても与えてあげたいと思っていたので春休みも夏休みもお休みを取り娘と東海岸や西海岸をあちこち回った。もちろん学歴が全てではないがアメリカで生きていくためには重要だと自分がアメリカの企業で勤務して散々思い知らされたからだ。

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娘は500人くらい生徒のいる公立高校に通っていたが三者面談に一度だけ私も行った。私は日本での三者面談を思い出し、少し質問の練習もして行ったのだがそれは無駄だった。たまたま娘の高校がそうだっただけだとは思うが三者面談中に進学担当の先生は一度も私と視線を合わせることなく娘と話し合っていた。大学巡りの際には大喧嘩もしながら娘は各大学の娘から見た長所、短所そしてママの意見という項目でノートを作っていた。実際にキャンパスを見に行くと新たな発見があって面白かった。一切成績をつけないという不思議な大学もあったし、来ているお母さん達が芸能人の結婚記者会見でも見たこともないようなサイズの宝石の指輪をしていた大学での説明会で開始してすぐに「ここじゃないわ」と娘が言いツアーにも参加せず退室した。何台もフェラーリやポルシェが横付けされている大学ではツアー中に娘が「なんか違う」と言ってその大学名はリストから外した。ボストンの某有名大学の真ん前のカフェでは泣きながら2時間大げんかをして娘はその門をくぐることはなかった。

本当にいろいろあったが娘は彼女自身ここは無理だろうと思っていた第一希望の大学に合格した。その大学にはアプリケーションとエッセイだけでなく自分の撮った写真、自分の歌のCD(その頃、娘は高校でジャズを歌っていた)を作り、私をどうかこの大学に入れてくださいをアピールしたようだ。そこからの合格通知はなんと3月31日まで来なかったので娘は諦めていたのだが通知はなんと大学の先生から手書きのお手紙で『あなたの作品はどれも素晴らしかった。お会いできるのを楽しみにしています』みたいなことが書かれていた。さらに驚いたのはその大学にあのMOMAでキュレーターをしていた娘の憧れの方がたまたまMOMAを退職されて教授としてお勤めだったので娘はその教授の元で勉強することができた。ある日、娘に「あの憧れの教授のクラスはどう?」と聞くと「すごく変わった面白い人だよ。」とだけ返ってきた。その大学では娘の希望通り小さいクラスの規模で充実した4年間を送れたようだし、学費は返さなくても良い奨学金と私の会社での積み立てなどを引き出してなんとかまかなえた。キュレーターになるには大学院に言かなければいけないので学費ローンはその時に借りようと思っていたからだ。幸運なことにフランスでは半年ポンピドゥーセンターで働きながら勉強もしたし、娘がサンフランシスコMOMAでインターン中に制作に加わった写真展の本にはアシスタントとして名前も載せてもらった。そこで満足したのかどうかは知らないがそのあと彼女は大学卒業後、移り住んだニューヨークでのインターン先で色々刺激を受け、ライフプランが変わり現在の仕事についた。本当は大学院へ行きたかったのではないかと思うが今の仕事はとてもやりがいもあって楽しいらしい。そして長年の趣味の音楽も続けている。

私は55年間も生きてきてライフプランというものが全くなくここまで来てしまったことをとても反省している。でもライフプランがなかったので娘が産まれたことにはとても感謝している(笑)。娘に習ってここから先のなりたい自分をもっと想像して生きていくことにしよう。

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