妹は私に語らない、笑わない

長い、長い下方に傾斜するプラスチック製の管を水に押し流されて滑っていく。派手に着水、普段笑顔を見せない妹から笑いが漏れる。もう一度、ニ人で一緒にカンカンに熱された鉄製の階段に並ぶ。母親はパラソルから出ない、父親はこういう場所に来るのを嫌がった。電子機器に残らない記憶、心拍、あなたの笑い皺、私は覚えている。私は日焼けをすると肌が赤くなりすぐ剥けてしまうタイプだったが、あなたはそのエネルギーをじわっと肌に蓄えるタイプだった。セブンティーンアイスであなたはいつもチョコレートを選んだ。私はいつも違う味をを選んでは、毎回地面に落とした。

クロックスをつっかけて、缶ビールを片手に玄関を開ける。蝉の声、突き刺さる熱波、一度扉を閉じる。やっぱりやめておこうかな、でも延滞料金が…。仕方ないと再び扉を開け一歩を踏み出す。顔を顰めながらエレベーターに乗り紫外線の中へ身を投じる。地面を歩くたびクロックスのゴムの音が鳴り、指に当たり擦れる。不愉快だ、それでも私はクロックスを履く、なんてったってあの塩対応の妹が私と色違いにしてくれたのだから。

TSUTAYAの電動ドアが開いた瞬間、ぶわっと冷気が漏れ出て私を祝福し、熱烈な歓迎する。私は一目散に階段を上がり、左から三列目、ホラー映画コーナーに直行する。ホラーコーナーは両隣のスリラーコーナーとコメディコーナーに圧迫されいつでも身分が狭そうだ。ともあれ、私はなんとなくのフィーリングと背表紙とポップで3本ホラーを選び、借りていた3本を返却する。借りていた3本はそれぞれ30点、30点、20点だった。それで良いのだ。

夕食のタイミングになって起床しホラー映画を見続ける姉を、妹は何を思っているかわからない重い一重の瞼に隠された表情のない両の目で見つめ、何も口にすることはなくただただ事実を受け入れていた。情けないことだ、私はまだ中学生で物心ついたばかりの子供にいささか重い問題を受け入れさせていた。しかしながら、母親と祖母は受け入れなかった。当然のことかもしれない、私は風呂に入らなかったし、食事もとらなかったし、ただよく分からない気色の悪い映画を見ることしかしなかったのだから。

電車で数駅の隣町のメンタルクリニックに連れて行かれた。マークシート式の質問票を埋めさせられ、なんだかんだと説教をされ、薬を処方された。おそらくこのクリニックは「死にたいですか?」という質問に対して「強くそう思う」とマークした人間に同じ言葉をかけ、同じ診断をし、同じ薬を出すのだろう。おかしな話だ。私に必要なのは向精神薬ではなく、毎日のホラー映画だけなのに、と思いながら仏頂面の母親と初診料の上乗せで信じられない値段をした会計を済ませ病院を出た。母親と祖母がこれで満足するなら私はそれで良い。

帰宅し私はいつものようにホラー映画を見た。今回のは父親が協力的なパターンで、母親はヒステリックではなかった。良い傾向だ。ホラー映画というものはいかに観客をうんざりさせ星2の評価を手にするか手によりをかけて作られた作品の集積のようなものであり、我々観客もそれを望んでおり、一桁%の確率で最高の作品が混ざっている、という蠱毒のようなカテゴリーなのだから。

妹が泣いている。妹が家族の前で涙を見せるのは初めてのことであった。なぜ泣いているのかだれも分からなかった、なぜなら彼女は一言たりとも自分の言葉を語ることはなかったからだ。母親は諦めて寝室へ引き上げていった、仕方のないことだ彼女には明日仕事があるのだから。ただ私は明日の予定など何もなかった、ホラー映画を3本鑑賞する以外に。1時間の沈黙の後、彼女はぽつりと、私が病人扱いされているのが嫌だったのだ、と一言告げた。 

私が彼に別れを告げた時、彼は数々の後悔を私にぶつけた。彼が私を愛していたことはわかっていたし、大切にしようとしていたが経験と技術が追いつかなかった、ただそれだけのことだった。私は高望みをしている、欲深いと思う。10年も私は待てない。同じ商業施設でも彼の連れていってくれた店でない店に行く、同じ駅で反対側に降りる、そういうことが起こるたび結局この世の中で妹と彼と女友達しか私のことを好きでなかったのかもな、と思う。ごめんね、ボン・ヴォヤージュ、でも妹が認めていたのはあなただけだったよ。

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