神様になりたくて

無理をしている、とひとに言われるとなんだか自分のキャパを超えたことをしている気がしてきて、そんな心の変化に伴って筋肉が、骨の動きが緩慢になり、瞼が落ち睫毛が影を作る。ブラウンがかった黒髪が太陽を吸っている。つむじは燃えるように熱いのに頭蓋骨の中身は日の沈んだ後の海のように冷たくてなんだか生焼けの肉になってしまったみたいだ、なんて考えながら28mgのタールを煙に乗せて肺に入れることなく大気へ放出する。あ、サングラス忘れた。

今思うとカナダでの人間関係はヘルシーだった。世界中どこでも人は生きづらさを抱えているものだろう、と仮定すると我々は大変気丈であった。我々は移民であり、「良い移民」でいなければこの国に留まることを許されなかった。我々は日々成すべきことを成した。それは往々にして体力と精神力を要したが結局のところ、我々が健康的に営みを継続するのに必要なのは毎朝のロシア語のニュースを聴きながらカーシャをかき込む時間と毎晩カウチに集まる時間だけであった。

コンプレックスや責任、といった他者と共存する上でどうしても生じてしまう重しをいかに両肩にのせるか、というテクニックは人によって練度が違うだろう。今にもバランスを崩しそうな不器用な人間を見ていると私が肩代わりをしたい思いに駆られるがそんなことはできない。それは彼らにとっての重しであり、彼らだけのものだからだ。更に言えば私がその重しを誰かの肩に上手にバランスよく積んであげることもできないし、取り除いたり、軽くすることもできない。やはり私にできることと言えば、朝一緒にカーシャを食べて、夜ジョイントを巻いてあげることだけなのだろう。

彼はいつも長い前置きを据えてハイネケンを要求した。実際ハイネケンは美味しいと思うのだが、当時の私は彼のその回りくどい言い回しがいやに鼻について美味しいと口にすることが憚られる思いがしていた。甘えるような目が鬱陶しい。苛立ちと無力感でどんな表情を浮かべて良いかわからない。彼は私がどんな態度をとっても、どんな突き放した言葉を言っても、徹底的に私をスポイルした。私が電話が嫌いだ、と言えば電話をしてこなかったし、メッセージも嫌いだ、といえば連絡の頻度を落とした。こういう女いたよなあ。
あ、ミヒャエル・ハネケの「ピアニスト」だ。ポスターを飾る白いトイレの中で一方的に手淫をするシーンを思い出す。愛の倒錯した人間は痛々しい。

彼は私の中に幻想の地獄を見ていた。と思っていた、今思うとそれは私の無意識下での真実だったのかもしれない。分からない、あなたの目には私は痛々しく生きているように見えるか?
 私はこの世界で上手く重しを載せて歩けているだろうか。はたまたその気になっているだけで勘違いをしているのだろうか。
ただひとつだけ、自覚が無いことは喜ばしいことだ。自分自身を人質に生きていくことほど愚かしいことはない。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切: