愛するあなたと交換日記をしたい

プラクティカルなものが傾向として好きだ。衣類、文具、道具、文章なんであれ機能美、実用美というものは実に理解がしやすいから好きだ。なぜそこに存在しているか明確な物質は私を安心させる。ただ、誤解をしないでほしいのは私は無駄排他主義者ではないということだ。無駄には無駄の美学がありそれは機能性、実用性とは別のジャンルだ。

村上春樹の文章は簡易で読んでいて気持ちがいい。彼の作品を初めてロシア語に訳した日本学者のドミトリイ・コワレーニン氏は、深い没入感について言及している。その感覚は村上春樹をはじめて読んだ高校生の頃を彷彿とさせる。村上春樹作品は簡易な文章と抽象化されてはいるものの明確なプロットから、流れるような読書中の感覚がある。

ただ私個人としては文章において読みやすい、読みにくいは重要なことでは無い。しかしながらこのような読書の感覚は愉快だ、結果として私は村上春樹作品を箸休めに読むくらいのファンと呼称するには到底及ばない一読者だ。要するにその物質が実用的たりえる性質を持つか、それがあなたにとってどの程度実用的かは別の話なのである。

彼の作品を読書することはインスタントな悦楽という私の美学の一面とは一致しているし、彼は小説、エッセイ、翻訳含め膨大な量の作品を世に出版している為筆者自身について考慮の余地がある。AIの描く精巧な絵に面白みを感じないように、作者の魂なき作品に価値などない。とはいえ、私は一作者の作品を全て網羅するような読書の仕方は数えるほどしかしたことがないのだが。

マッチで吸うたばこは美味である。マッチの着火剤が燃え尽きる匂いも一興である。ただ現代においてマッチに機能およびコストパフォーマンスで勝る器具が存在することなど言うまでもない。私含め全員がそれも承知でもマッチの持つポテンシャルに抗えないからマッチは淘汰されず現存しているわけで。私が普段携帯しているのはライターだが、私の周りの人間にはぜひマッチを携帯していて欲しいと思う。実用性なんてものは案外小さな美学や一時的な快楽で吹き飛ばされてしまうものなのだ。そう、私は今偏愛の話をしている。

私はキューブリックの作品を愛している。一般的に「2001年宇宙の旅」は難解とされているが、それ以外の作品のテーマとプロットは非常にクリアである。それに「2001年宇宙の旅」はストーリーやメッセージを楽しむものでは無いと個人的に考えている為、私にとっててキューブリック作品は全て完璧に実用的な作品なのである。ジャン=リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」が明確にマリアンヌを美しく切り取るためだけに撮られたように、我々見る方にも勝手に受け取る権利がある。ワンシーンだけでも頭に残る画、台詞があったり、理由は分からずとも全体を通して心が動いたならばそれでいいじゃないか。

またB級ホラー映画達も私にとってかけがえのない完璧に実用的な存在だ。彼らの中の95%は実に退屈でなんの教訓もなんの記憶にも残らないが、言葉を変えるからば九割五分の割合でしっかりと時間を食い潰してくれるイチローもびっくりのタイム・イーターなのである。時間の無駄遣いなど最高の贅沢である。この人生全てが時間の無駄遣いをしていると鬱屈した仮定をするならば、このくらい極端な無駄遣いをしなければカタルシスは得られまい。 

例に挙げた全てに私にとって何かしらの存在意義があるように、私の選んだものには全て美学が存在する。それは特別なことではなく誰しもが自然に成していることであり、13億人もいれば人によってその形は異なる為それを偏った愛と呼ぶ。おかしな話だ。偏愛はあなたの軌跡であり、あなたを形作るものであり、あなた自身である。美しくないわけがなかろうに。

私の知らないあなたの好きなものの話を沢山してほしい、言葉を尽くして。それは愛だからだ。