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つけめんヒストリ エピソード9


光男と一雄

店はすでに閉店して照明は消されていたが、厨房にはまだ明りがある。
正面の右端にある勝手口から中に入ると、強烈な匂いが鼻をつく。

コンロの火は消され、スープガラのダシが出つくして煮詰まった匂いとメンマ臭だった。


  「こんばんは」
  「おおっ、みっちゃん来たな」
  「おじさん久しぶり、今日も忙しかった? 」
  「ああ、まあまあね、今終わったとこだよ そば食べるだろ?」
  「あっ、ほんと嬉しいなぁ、いつもすみません、あてにしてきました」
  「そっちに掛けて、用意してあるから」

一雄は光男のために閉店後、もりそばを一人前残しておいた。
一般の個人店だと営業を終えて店を閉めて厨房内の後片付けと一通りの掃除を終え、その後に食事と風呂に入り就寝するというパターンである。
しかし一雄は違っていて、毎日深夜まで仕事をするのが日課だった。
閉店後も乾燥メンマを煮て柔らかくしたり、焼豚用の豚肉を捌いてポーションカットするなど、翌日の営業の為にやらなければならない仕込みをしていた。
光男は仕事のじゃまにならぬように定休日前日の夜を見計らって訪問していた。


その目的は一雄の話を聞くこと。
またもう一つの楽しみが特製もりそばを食べることだった。

作業台の上にはすでに茹だったそばが皿に盛られている。
何故かその上にザルを被せて置いてある。
なぜザルなのか、これはネコかネズミ対策なのだろうかと、ふと頭をよぎった光男だったがそこは深くは考えないようにしていた。
せめてラップでもかけておいてほしいとは思ったが、ここまでしてくれる一雄にそんなことは言えない。

  「ほれ、これぐらい食えるだろ」
  「えつこんなに? 食えるかな」
  「大丈夫だろ、若いんだから食わなきゃダメだ。
   そうだそれとそこに豆板醤あるだろ、今これを入れるのが流行ってる
   んだ。生卵入れて混ぜて食べるととさらに旨い」
   「へぇー豆板醤か。そうなんだ、じゃあちょっと入れてみようかな」

誰もいないホールで一雄から特製もりそばをいただく、こんな贅沢な客はいないだろう。

一雄は、寸胴の最後に残る白湯の凝縮スープを、一人前だけ鍋に移し加熱した。


のびたもりそばの味


そばは既にのびきって歯応えはない。
しかし、さらに濃くなったスープの旨味と濃い醤油のエキス、砂糖の甘さと酢が混然となってそばに絡みついていく。
ここでしか体験できない味だった。
代々木上原と中野は、そばを太めにしてもっと淡く澄んだスープで合わせてあっさり味に仕上げていた。
特製もりそばはもともと、のびたそばをスープに浸けて食べるものだったという。
栄楽時代の従業員たちが湯呑みで、のびたそばを賄いにしていた情景が思い浮かぶ。
光男はこの味が、一雄の言うところの30年前の本当の「もり」の味なのかと思った。
一雄曰く、柔らかい筋肉は一瞬力を入れることで硬くなる。
これと同じ理屈で、そばもしっかりと柔らかく作り、茹でて水にさらし硬く引き締まるのが良いと云々して、のびてもしっかり繋がった旨いそばを作るのを理想としていた。


昭和30年代々木上原大勝軒前で 一雄21歳 光男0歳

数年後、ある常連客がテレビのインタビューで、東池袋大勝軒のそばは「喉まで食える」とコメントしていた。
光男は上手いことを言うなと思った。
そういえば父正安はよく、そば腹が空いたと言っていた。
聞き慣れない言葉で、それほどお腹は空いてはいないが、そばなら胃袋に負担なく入ると言うことらしい。
同じように飲んだ後のラーメンも「締め」ということで、これは聞きなれた表現だ。
腹一杯になったのにさらに食べたいと思わせるのが特製もりそばで、一雄ほどの大食いではない光男だったが、この特盛そばは残さず食べた。
それにしてももりそばは、甘い辛い酸っぱい塩辛いを一つにバランスよく調合する不思議な食べ物である。

  「いやーうまかった、なんとか食べた、腹一杯だ。ご馳走様です」
  「うん、ちょっとまだ片付けがあるから、向こうで待ってて」
  「はい、ところでフーちゃんは?」
  「ああ今はテレビでも見てるんじゃないか、仕事終わったらもうテレビ
   っきりだよ」

一雄と二三子の憩いの間


その時二三子はすでに休んでいるらしかった。
店の勝手口を入るとすぐ右手にシンク、左手にスープ釜、茹で釜と作業台横並びであり、その間を通りぬけると左手奥に高床になった4畳半の部屋がある。

開店当初はこの部屋で一雄と二三子が暮らしていた。

足の踏み場もない部屋だが、毎日の仕事の合間に二人で寛ぐ憩いの間だったのである。


中央にお膳があり、その周りを取り囲むように、茶箪笥とアンプ、スピーカー、テープデッキのオーディオ機器がある。
一雄は大の音楽好きでジャズ、ポップス、歌謡曲などジャンルを問わずレコードやテープがところ狭しと積み重ねてあり、ここが趣味の部屋になっていた。

しばらくして店の片付けを終えた一雄が、ラーメン丼に山盛りのかりんとうとピーナッツを持ってきた。
酒を一切飲まない一雄は甘党で、菓子類と共にお茶を嗜む。
丸長創立時の親父たちは混沌とした世相を生き抜いて、猛者という呼び名が相応しいくらいの酒飲みが多い。
しかし後に多くの弟子を持つ親方になる一雄であったが、怖いイメージとは程遠く、怒った姿を見たことがない優しい新世代の親父であった。
一雄は厨房奥にある炊事場で、おもむろにコーヒーを淹れ始めた。

凝り性の一雄はコーヒーもこだわっていて、流行りのサイフォンで淹れたり、当時としては珍しいエスプレッソマシンを買い揃えていた。
昭和50年代当時、街の喫茶店数もピークを迎えて嗜好品としてのコーヒーをこだわりのある淹れ方で提供する店が多くあった。
モダンでおしゃれな喫茶店では、恋人たちがいつも語りあっていた。
屋号は忘れたが新宿紀伊國屋近くの地下に大型の喫茶店があり、高校時代のクラスの仲間が全員横並び対面で座れる広さだった。
雰囲気も各店舗のこだわりがあったり、客も自分の好みと利用する動機で選ぶ楽しさがあった。
その一方で生活者も次第に家庭で美味しいコーヒを飲む趣向が強くなり始めていた。
光男がコーヒーを飲み始めたのは中学生の頃からだろうか、勉強する目的で眠気を覚ましにコーヒーを飲むのは学生の決まり事のようになっていた。
しかしカフェインが実際眠気を遮る効果はあったかどうかは疑問で、それが思い込みだった可能性もあるかもしれない。
家庭には常時インスタントコーヒーがあり、これと同じメーカーの粉ミルクと砂糖は外せないセットになっていた。
ブラックコーヒーを飲むようになるのは成人して砂糖の甘さが気になってからだった。
学生時代はなぜあんな苦い、酸っぱいだけのブラックコーヒーが美味いのかわからなかった。
そう考えると少年時代に飲んだコーヒー牛乳がコーヒー初体験で、この味に慣れていたのかもしれない。

コーヒーにブラウンシュガーを多めに入れ掻き回し、カップの淵から生ミルクをゆっくりと注ぎ込む。
生ミルクが円を描くのを見ながら一雄はカップの淵に唇を当て、おもむろに口に含んだ。
  
  「うーん、こうして舌の上でミルクを味わい下の舌でコーヒーを味わう
   んだよな、わかる? これが旨いんだよ」
  「ええ、下の舌?  何それ、どいういうこと」
  「これを飲むのもテクニックが必要なんだよ」
  「ほんとかなぁ」

そんな蘊蓄を言われても、どんな飲み方かはよく解らない。しかし一雄が言いたいことは分かる気もする光男だった。

  「まさかそんな器用なことはできないよね、先に浮いた生ミルクを口に
   含んで味わいながらそのあとコーヒーを一緒に飲むってことなんじゃ
   ないの?」
  「まあそういうことでもあるな、はははは」

仕事で良いと思った食材やら道具にこだわり、日頃の生活で気に入った音楽などを愛でてそのことを楽しそうに語り出す。
光男は一雄のそれらの話を聞くのが好きだった。
幼少に父を失い苦労して育った一雄は物を大切にする気持ちを忘れず、道具でも捨てるのは忍びなく食材もとことん使い切る。
あれはよろしくないなと言って、穴の空いた業務用ゴミポリバケツも店の裏に何個も積み重ねて捨てずにあった。
また当時はあまり見かけない黒電話もそのままプッシュホンには変えず使い続けていた。

  「ところでこの映画音楽全集のリバティバランスを撃った男って曲、あ
   まり聞いたことない面白い題名だね」
  「ああジョンウェインの西部劇だな。あれは池袋に来てからロードショ
   ーで観たかな、でも劇中では流れなかった曲だった。中野にいた頃映
   画はよく観たな。
   もっとも映画ぐらいしか休みの楽しみがなかったから、月に一度の休
   みは映画が楽しみだった。店の皆と一緒に一日で2回映画館をはしご
   することもあった」
  「映画もその頃が全盛期だったんっだね」
  「ああ中野にも駅前と鍋屋横丁にも城西館、オデオン座とか数件あ
   った」
  「その頃はテレビ放送が始まる前の頃だね、テレビの前で家族で記念
   写真撮った記憶がある。アンテナはまだ室内アンテナで」
  「あの頃は最初は街頭テレビから始まったな」
  「力道山だね」   
  「兄貴が好きだったよな」
  「そうプロレスのテレビに釘付けで、力道山の技に合わせて同じように
   自分の身体を動かして興奮していた」


光男 昭和32年頃


二人が話をしているといつの間にか傍で聞いていたのか二三子が話に入ってきた。
会う時はいつも笑顔が絶えない優しい女将さんであった。
でも一雄に言わせるとおちょこちょいでそのくせ気が強いという。
二人はおしどり夫婦だった。

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