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太郎の生きた縄文時代 「鳥浜貝塚と若狭三方縄文博物館」|福井縄文旅

彼の名前は「縄文太郎」、たぶん…
(私が会話を交わした地元住民の情報による)
如何にも縄文人あるあるという感じでしょうか。

そんなザ・縄文人のような太郎が立つ場所は
「縄文時代のタイムカプセル」と呼ばれる
福井県の日本海近くの貝塚。


鳥浜貝塚とりはまかいづかとは

今回訪れたのは福井県の南西部、若狭町の鳥浜貝塚とりはまかいづかは、縄文時代草創期から前期にかけて(今から約12,000〜5,000年前)の縄文遺跡です。
東京からは新幹線で米原駅へ、そこから特急と普通電車を乗り継いで、JR小浜線の三方みかた駅まで約4時間。

日本海に面した五つの湖・三方五胡みかたごこの一つ、最も内陸にある三方湖みかたこに流れる川のほとりにある貝塚。
残念ながら、今はこの太郎と碑が立つだけのうら寂しい広場と化しています。

ここでの縄文時代の様子を伝えてくれるのは、貝塚から500~600m川を下った場所にある若狭三方わかさみかた縄文博物館』です。

目の前は三方湖みかたこに注ぐ穏やかな川の流れ。
この先に見えているのが三方湖みかたこ、そしてその向うには4つの湖が連なり、さらにその向こうが日本海です。
豊かな自然は水鳥の生息地としても重要な湿地で、ラムサール条約にも登録されている景勝地です。

先ほどまでの雨が噓のように明るくなった川辺、
人も鳥もまだ外に出てきていない。

鳥浜貝塚とりはまかいづかが「縄文のタイムカプセル」と言われる大きな要因は、ここが「低湿地貝塚」であることです。
日本の土壌は酸性が強く、草木などの殆どが溶けてなくなってしまいますが、低湿地は水分を多く含んでいるために、通常であれば腐ってしまう草木、それらで作られた製品が水に閉じ込められ、そのままの姿をとどめているのです。

しかもこの鳥浜貝塚とりはまかいづかに残されていた遺物の数はけた違いに多く、その数は「数万点」。
その多くが木の器や加工した木材で、あまり知ることのできない縄文時代の「木」との関わり合いを教えてくれるものとなっています。

約4000年前の「スギの株」

近隣の貝塚から見つかったのは、直径1.5mの大木です。
鳥浜貝塚とりはまかいづか』の周辺の泥層には、このようなスギの大木が立ったまま、または横倒しの状態で埋まっていました。
当時は平地にもスギを中心とした木々が生い茂っていたと、想像できるようです。

この迫力と生生しさ、
生きている!って言っているよう。

11艘の丸木舟まるきぶね

日本各地で見つかっている縄文時代の丸木舟まるきぶねですが、こんに多くの、しかもどれもがほぼ完全な形なものは類を見ません。

11艘が作られた年代は5500年前~2700前と様々であることから、長い期間に渡って丸木舟まるきぶねを使っての生活があったと考えられるようです。
素材は全て「スギ」。
その木取り(木の性質や欠点を考慮して原木を切り出す)や優れた木工技術で、耐久性に富んだ丸木舟まるきぶねが作りあげられていました。

この丸木舟まるきぶねを作る、再現実験がおこなわれました。
当時使われていたような石斧せきふ(石の斧)で、直径1mのスギの原木を伐採するところから~完成まで、のべで42日間。
その制作期間は、長いのか短いのか…。

当時の鳥浜貝塚とりはまかいづかは、3方を湖水に囲まれた突き出た岬の先にありました。
丸木舟まるきぶねは、カヌーのパドルの様な木製の「かい」で漕がれ、ムラからムラへ、集落から集落へと通っていたと思われます。
さらに、日本海へ出て能登半島や壱岐へと向かいました。ここでは採れない黒曜石やサヌカイトといった硬く鋭い石材を、この地にもたらしたと考えられています。

削った痕が生々しい。

「鳥浜タイプ」の石斧せきふ

縄文時代の斧である石斧せきふは、現在の斧の金属の刃の部分が石であったものです。鋭く割れた石をそのまま、または鋭利に磨いて、刃先としていました。
その石と木製の柄の一般的なジョイントの方法は、木製の柄に穴をあけそこに石をはめ込むというもので、この手法は弥生時代にも受け継がれました。

それとは別にここには「鳥浜タイプ」と呼ばれる世界的にも珍しいとされている「石斧せきふの柄」がありました。

左の長く細いのが斧の「握り部分」、
続く右の短く太いのが「刃先を装着する部分」で、
継ぎ目のない木からなっています。
(現在は劣化により割れ目ができてしまいました)

一本の木から、枝と幹を「斧の形」のように一体で切り出し、「枝」を握りの部分に、その枝から繋がる「幹」を加工し刃先を装着する部分としたのです。効率よく、そして強固な石斧せきふ作りがおこなわれていたのです。

これは握りやすそう。

縄の様々な編み方

縄文時代というと、縄文土器や石器イメージするように、土や石が生活の中心にあったように思いますが、ここでは豊富で身近にあった草木を存分に利用していた生活が見えてきます。

「縄文」の代名詞である縄は、いく通りもの素材や編み方があり、使用する場所によって使い分けていたと考えられます。

ウルシ塗りと真珠

豊富な木製品の中には漆塗りの櫛もありました。この地域の伝統工芸「若狭塗りわかさぬり」のルーツなのかもしれません。

そして鳥浜パールと名付けられた「真珠」も見つかっています。
現在でも日本が誇る「真珠」が、縄文人たちをも魅了していたと想像すると、一層に親近感が沸いてきます。

今回は「縄文のタイムカプセル」をほんの少し開けただけですが、
小回りの効きそうな丸木舟まるきぶねに、使い勝手がよさそうな石斧せきふ、「美しい」の物差しも同じと、案外と今と変わりないようにも思えてきます。
ちょっとワイルドな太郎とも仲良くなれそうな…気がしてきます。

参考図書
鳥浜貝塚  森川昌和著 未来社
若狭三方証文博物館 常設展示図録 

最後までお読みくださり有難うございました。

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