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明治と昭和の宮大工たちの心意気

縄文の女神に会うために訪れた山形県、
このところの天気予報で見聞きする雪情報に、山形の縄文時代の冬の生活がどんなものであったかと、思いを馳せる日々です。

その縄文の女神のいる山形県立博物館のすぐ近くに、明治初期の擬洋風建築の最高傑作と言われる建物があります。

瀟洒な外観が際立つ建物は、1971年(昭和46年)に開館した山形市郷土館
もともとは1878年(明治11年)にここから1㎞程の場所に建てられた病院であり、解体・復元され郷土館として保存されている建物です。


旧済生館本館

紅葉の中の4階建ての楼閣風の建物は、病院とは思えない洋風・中国風とも感じられる異国情緒のある趣です。

明治の初頭、初代の山形県令となった三島通庸みしまみちつねによって〝文明開化の象徴〟として建てられ、後に済生館と命名された「県立病院」でした。

国指定重要文化財・近代産業遺産

〝済生〟とは「人の命を救う」と言う意味であり、江戸時代の漢方薬の本でよく使われていた言葉であるそうです。

ドイツから最新の医療機器を取り寄せるなど、当時の東北地方におけるドイツ医学の中心としての病院であり、医学校としての役割も担っていました。


塔のある3層4階建て

この建物は東京や横浜への視察を基に構想を練って設計され、宮大工を中心に300人もの職人によって、わずか7か月で完成しました。

1階は変形の8角形、2階は16角形、3階は階段室、4階が正8角形と多角形の層が重なる建物は、3層であるようで4階建てになっています。

内部が複雑な構造となっていて、3層目は階段室とその上の8角形の小部屋との2層に分かれています。

ギリシア神殿風の列柱と柱頭飾りは、勿論木造。
その上の瓦屋根や雲形の飾りが和風の雰囲気も残しています。
壁の塗装の色は和風とも洋風とも言えない絶妙なカラーで、ベランダの水色とよくマッチしています。


塔の背後には中庭を囲む円形回廊があり、その周りは診療室になっています。
脇にある増設された事務室から建物の中へと入ります。


中の円形回廊から見ると、今度は3階建てに見えます。
正面にあった3階の階段室のベランダが姿を隠し、塔にぐるり廻った4階部分のベランダが存在感を示しています。
鎧戸付きの上げ下げ窓も、建物の顔の一部となっているようです。


14角形の回廊はドーナツ型をしており、その内側は中庭になっています。
回廊には8つの部屋が配置され、それぞれ診療室として利用されていました。


「ローレツ先生の部屋」は元外科診療室です。
オーストリア人の医師ローレツは、この病院の医学校の教頭として招かれました。


この両開きの扉から塔のある建物へ入ります。


2階の展示室へ向かいます。
緩やかな階段をのぼると、そこには中二階のような踊り場があります。


踊り場から見下ろしたところです。
ステンドグラスの原色の柔らかい光、ガラス戸から入り込む太陽の眩しい光、照明の放つボンヤリした光の3つの光が、無機質な空間に暖かさを与えてくれています。


踊り場から更に上っていくと1階までが見渡せて、複雑な構造になっているのが分かります。

この建物の大部分は日本古来の木造建築の技術によって造られていますが、このような複雑な構造を可能にしているのには、構造の一部に西洋の技術が取り入れられていることにあるそうです。


2階はこの中庭に面した1室だけで、この建物の中で一番大きな部屋です。

今は郷土資料などが展示されています。


2階~3階~4階へ上るための螺旋階段です。
ケヤキが用いられ、側面には日本の伝統的な装飾である唐草模様の彫刻が施されています。

階段を上がりきる前にある床部分が3階で、その上が4階になっているようです。

ここより上は立ち入り禁止でした。


あちらこちらに配置された当時のシンプルな照明器具やステンドグラスが、建物内部のアクセントになっているようです。

階段を下りて、次は1階の中央部分へ向かいます。


建物の中央部から中庭方向を見たところです。
人力車があるのは、ここが病人などの出入り口であったことを示しているのでしょうか?


扉を開けると、中庭の中央に枯山水があるのが目に入ります。
病院に枯山水?意外な組み合わせです。


昭和の宮大工の苦労

ノスタルジック感満載の建物ですが、今ここに再現・保存されているのには、明治の宮大工だけでなく、昭和の宮大工の活躍なくしてはあり得ませんでした。

明治初期に建てられたこの建物は設計図がなかったため、建物を解体しながら設計図を作り、当時の工法を探りながら復元したそうです。
困難極める中で体調を崩す職人も少なくなく、3年半ほどかかって今の形が出来上がりました。


国策としての近代化の中で、西洋風の建築様式を見よう見まねで作り出した擬洋風建築。
当時はこのような建物が街中にいくつもありましたが、度重なる大火で残されているのは僅かになってしまいました。

明治と昭和の職人たちの努力と苦労が詰まった建物。
彼らの心意気を忘れずに、いつまでも大切に守っていきたいですね。


*参考資料
山形市郷土館パンフレット

最後までお読みくださり有難うございました☆彡




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