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国際協力の”理想”について思うこと

はじめてサブサハラアフリカの地に降り立ってから4年以上が経った。
いま国際協力や国際開発と呼ばれるものについて、思うことを書いてみようと思う。

「国際協力」という言葉に出会ったのは15年以上前、中学生のときだった。
私が生まれたのと同じ日、同じ時間にフィリピンのスラム街で生まれてひとがいて、彼はお腹いっぱい食事をすることができず、学校にも通えず、危険な環境でゴミ拾いをしながら兄弟の面倒を見て暮らしている。そんな理不尽な世界のリアルを突きつけられ、それから私の”国際協力”への執着が始まった。

そもそも国際協力とは何なのか。

「世界2位の経済大国であり戦後急速な復興を遂げた国として日本人として、開発経験やすぐれた技術で世界に貢献すること。」

そんな説明になんの疑いを持つこともなく長い間、国際協力は私の夢であり、あこがれだった。

あれから15年。世界も日本も、そして自分も変化してきた。日本は依然として世界トップの経済大国ではあるものの、経済成長の停滞、経済格差、子どもの貧困、社会保障費の増大、少子化など様々な社会問題が叫ばれている。世界では新興国が台頭をみせ、サブサハラアフリカ諸国では都市化やIT化が進む一方地方では農耕中心、日本の昭和初期のような生活が続いている。

日本の開発経験や技術は世界の役に立っているのだろうか。
日本は国内で様々な社会課題を抱える中、他国を支援する余裕があるのだろうか。
他国は日本の支援を必要としているのだろうか。

2019年アフリカでの生活が始まった。首都から400kmほど離れた町に暮らし、ヘルスセンターの看護師として働いた。

ある日ヘルスセンターの前で生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて立ちすくむ若い女性がいた。私は「無事出産したんだな。家族の迎えを待っているんだな。」と思った。同僚の看護師がその女性に近づき赤ちゃんをのぞきこみ、女性を慰めるように肩をたたいた。その赤ちゃんは亡くなっていたのだった。赤ちゃんを抱く女性は取り乱す様子はなくただただ現実を受け止めているような表情を浮かべていた。

健康指標は着実に改善し、保健医療サービスへのアクセスは向上した。定期的な妊婦検診も一般化し、ハイリスクアプローチも実施されている。救われる命の数は確かに増えた。でも果たして人々の暮らしはよくなっているのだろうか。

ヘルスセンターでの出産自体は無料で行われている。しかし、妊婦とその家族は様々な負担を強いられている。助産師が指定する分娩セットを一式そろえなければならず、村からヘルスセンターに移動するためには交通費も必要になる。あまりに遠い場合には分娩予定日数日前からマザーズシェルターに滞在する必要がある。その間子どもたちの世話や家事はできず、見知らぬ女性たちと集団生活を送りながら時が来るのを待つのである。

施設分娩によりたとえ命を救うことができたとしてもその後の支援はほとんど期待できない。ある村で出会った脳性麻痺の子どもは適切なケアを受けることができぬまま、筋緊張とそれに伴う苦痛に泣き叫んでいた。低出生体重児として生まれ慢性的な低栄養状態が放置されていることもあった。

一方、富裕層には設備の優れた私立病院を利用する者、隣国で高度医療を受ける者もいる。そして医学生に就職希望先を聞けばみなドナー機関や他国の医療機関と答える。

現実を目の前にしても自分一人ではなにもできない。そんな思いを抱え国際開発実施機関の一員になった。億単位のお金が動くため一人でもがいていたよりは物事が動く感覚はある。でも現場で目の当たりにした苦しみや世界の理不尽に手が届く感覚は全くない。

それを”日本”がやる意義、”日本”の政策との合致、”日本”への裨益、”日本”の技術。

それらが重視されることは理解できる。当然他国との重複を避け日本として介入する意義を明確に示す必要がある。限られた資源を適切に投入するためには費用対効果を考慮するとともに、日本の支援として見せやすい支援を行うべきである。そしてODAは外交政策、安全保障の観点からも重要な取り組みである。

でもそれらを重視すると取り残された人々に手が届かない。

そして日本とアフリカはあまりにも違いすぎる。国土、民族、環境、価値観、発展プロセス、日本の経験や技術が適応しない場合も多い。一部の国では都市化が進み、IT活用が急激に進む一方、農村部では日本の60-70年前のライフスタイルが続いている。そもそもアフリカで求められている日本の技術を普及する人材が不足している。

世界中に支援ニーズはあふれている。その中に目を向けられない取り残された人々が大勢いる。でもいまの支援のやり方では彼らに手を差し伸べることはできない。そして日本の強みと世界のニーズのミスマッチが起こっている。

じゃあNGOを立ち上げて寄付金で支援を行うか。自分の手の届く範囲で国際協力を行うか。自分の人生をかけてだれかの生活をよりよくする。確かにロマンチックで素敵なことだ。でも私が運営に失敗したら、私がその地を去ったら、それはゼロになってしまう。私には日本に大切な家族がいて、生活がある。家族に助けを求められれば私は村を捨てて家族のために動くだろう。だから個人として支援をすることはできない。

じゃあどうすればいいのだろう。なにができるのだろう。なにをしたいのだろう。どんな風に関わっていきたいのだろう。

そんな自問自答の繰り返し。いっそのこと考えるのを辞めて国際協力と距離を置きたい気持ちになる。実際距離を置いたこともあった。日本で公務員として働き高齢者支援に携わった。でも15年以上執着してきてしまったから生活や仕事から国際協力を完全に切り離すことはできなかった。

これからもずっと答えを探し続けることになるだろうし、永遠に答えにたどり着くことはないように思う。

いま描く理想は、子どもが健康に暮らし学び、地元に帰ってその地域をよくしていってくれること。アフリカにはアフリカなりの発展プロセスがあり、様々な知識や技術を世界各国から学びいいとどりをしながら適応させていってほしいと思う。

その理想を実現するためにはどんなことが必要なのか、自分にはなにができるのかはまだわからない。

その答えを見つけるためには自分はどこにいるべきでなにをすべきなのか、まだその答えを探している。

もうすぐ30歳になる。
まだまだ半人前で自分がなにもので何が得意で何ができるのかわからない。これから職をつないでいけるのか、自立した生活を送っていけるのかさえ不安になることがある。でもここまで執着してきたからには理想の実現を目指してみたい。

仕事として関わるようになると国際協力に関わることのジレンマや矛盾について言葉にすることをためらうようになっていた。言葉にすると言い訳を並べているようで自分でも受け入れられなかった。でもこれが率直に思っていること、感じていること。まずは自分で受け止めるところから。

何言ってんだって感じだろうな。10年後にはこんなことで悩んでたのかと笑えていたらいいなと思う。


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