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振り返る。双極性障害からの脱出⑥

⑤から続く。

⑤に書いた病院には、約2ヶ月で退院した。
元々かかりつけ医ではなかったのと、症状が落ち着くにつれ、病院を出たいと申し出て、元のかかりつけ医に通院する事を約束して退院した。

入院前まで住んでいた家は既に住めなかった為、またしばらく体調の安定まで時間が掛かると判断され、入院先のケースワーカーと市の生活課、保健所の判断から生活保護になった為、その条件を満たす家賃の家に引っ越さねばならなかった。

幸い、それまで住んでいた地域に近い場所の古くて小さな家を次の住まいにした。

入院までの経緯と、退院後の環境の変化に暫くは慣れる事に専念した。

正直、生活保護は精神的にかなりダメージを受けた。
それまで良いイメージを持っていなかったのもあり、自分が落ちぶれてしまった事に、逆にショックも大きかった。

暫くは、わたしはダメ人間だと認定された気持ちと、周りからも落ちぶれた人間だと思われるだろうなという気持ちで、かなり塞ぎ込んだ。

なるべく、人との接触は避けた。馬鹿にされる、嫌われる、そんな暗い気持ちを抱えていた。

そんな気持ちの落ち込みから、いつ、また自分がおかしくなってしまうのかという不安で先が全く見えなかった事、ここまで底辺に落ちてしまった人間が、這い上がれるのだろうか、そんな事を毎日頭の中でぐるぐると考えていた。

その後の希死念慮は常に無くならなかった。

退院後2週間後、一酸化炭素で自殺未遂をした。救急車で搬送されたが、あまり記憶がない。

常に付き纏う不安。

その年の夏、ODで140錠の薬を飲み、また救急車で搬送され2日間精神科救急病棟に入院した。

墨のような大量の飲み物を無理矢理飲まされ、胃洗浄された。その時の記憶も定かではない。

ただ、3日目に精神科病棟に移された病室が、自分も含めて、みんなが変で怖くなり、逃げるように帰宅した。
その後、当たり前だが体調は絶不調で、何も食べられず起きられなかった。

暫くして、少しだけ体調が落ち着き、ボッーと過ごす日々だった。

その時期も、まだ人との関わりは難しかった。
家にひとりでひきこもり、極力外には出なくなっていた。

一年過ぎたとこだろうか、今度は薬の副作用でパニック障害が深夜に続き、またしても入院。

苦しくて、自分はどうなるんだろう、生きている価値なんて皆無に感じていた。

こんなに苦しいのに、生きなくてはいけないのかと、病院から飛び降りたい気持ちだった。

その後もかかりつけ医に通院は続いた。
しかし、初夏、首を吊った。

その後の事は覚えていない。
ただ、救急車で搬送され3日間意識が飛んでいる。

この時は3週間の入院だった。
その時入院したのは地元で1番大きな病院の精神科病棟だった。とても綺麗な病院だった。

その時出会った方々もみんな優しい方々だった。それと大なり小なり、心に不安と傷を抱えている人たちだった。

その中で鮮明に覚えている子がいた。
まだ19歳の可愛い女の子だった。
とても優しい子で、笑顔の可愛らしい子だった。

彼女は消灯後、ベッドに座ったまま、毎晩泣いていた。

どうしたんだろう、と気になっていた。

ある日彼女がわたしに、

大震災で家を流されて、被災者用の住宅に住んでいた。お父さんは漁師で家に帰る事はほぼなく、お母さんが1人、お子さん3人を育てていた。
1番下の妹さんは、そんな中、受験を前に希望に満ちていたそうだ。

そんなある日、
妹さんは首を吊って亡くなった。

首を吊った紐は入院していた姉のものだったという。

わたしが紐を出して置かなければ、
わたしがもっと話を聞いていれば、

そんな風に、彼女は罪悪感と途方もない悲しみと苦しみにもがいていた。

退院する日、わたしは彼女から、
出会えて有難う。

と書いた手紙を貰った。

その手紙は今でも大事にとってある。
彼女という存在を忘れない様に。

続く。

#自死
#双極性障害
#精神科病棟

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