ニヒリズムにさす光


僕の生きていく問題は、ひとえに、世の中がニヒリズムに、みちているということにある。
キリストを信じることになったのは、ニヒリズムを解決する光がキリストにあったからである。
椎名麟三「私の聖書物語」に、そういう一節がある。椎名は、ドストエフスキー「悪霊」を引用して語る。

  


「その小説(=小説『悪霊』)は、多くの感動的な場面にみちているが、そのなかでも自分の思想を証明しようとして自殺しようとしているキリーロフを、スタヴローギンというニヒリストの権化(ごんげ。=化身。)のような男がたずねて来たときの対話ほど私の心を打つものはなかった。キリーロフは、小さいときに見た木の葉について話す。それは日光に葉脈がすいてキラキラと美しかったというのである。
スタヴローギンは、それは何の意味だい、とたずねる。勿論、意味なんかない。キリーロフは、そう答えて、人間はすべて許されているのだというのである。スタヴローギンは、その彼を追究して、それでは、子供の脳味噌をたたきわっても少女を凌辱してもいいのかとたずねる。それに対してキリーロフは、それも許されている、ただ、
「すべてが許されているとほんとうに知っている人間は、そういうことをしないだろう。」
(※、注:この文そのものは、上に掲げた原文にはない。椎名氏が自分で要約した文章と言える。)
と答えるのである。
私を打ったのは、最後の括弧の部分
(注:=「すべてが許されているとほんとうに知っている人間は、そういうことをしないだろだ。」)
だ。ここには深い断絶がある。「すべてが許されているとほんとうに知っている人間は」と「そういうことをしないだろう」との間にである。そしてふしぎなことには、この断絶から、何やら眩しい新鮮な光がサッと私の心に射すのであった。この言葉に感動したのは、私だけかと思ったら、日本や外国の作家に実に多い。たとえばジイド(フランスの小説家)なんかが、至福の予感のするものとして、そのドストエーフスキイ論にとり上げているのもこの個所である。だが、考えてみれば、これほどおかしな辻つまのあわない言葉はないのである。すべてが許されているとほんとうに知っている人間は、そんな子供を殺したり少女を凌辱したりするなんて平気だろうというのなら話はわかるが、そうしないだろうなんていうことはどうしてもわからないのである。だがわからないままにだが、八方ふさがりで生きて行く道を失っていた私には、私の知らない道を暗示している気がして、いつまでも心に残っていたのだった。この「すべてを許されているとほんとうに知っている人間は」が「そうする」ではなく「そうしないだろう」と転換する点に実はキリストが立っているのであり、このような転換はキリストにおいてだけ可能なのだと知ったのはずっと後のことであった。ドストエーフスキイには、理窟で考えてはわけがわからないが、しかし胸を打つ言葉がたくさんある。たとえば苦悩を愛すという言葉がある。フランスの作家ルイ・フィリップは、このドストエーフスキイの言葉をかかげて、この言葉は嘘っぱちだが、しかし何となく慰められる言葉だと言っている。言葉そのままの意味では、変質的なグロテスクさを感じさせるものであり、だからまともな人間の言葉ではない気ちがいのたわごとのように見える点は、先刻のキリーロフの言葉と同様である。だから嘘っぱちだというルイ・フィリップの言葉に同感である。だがその貧しい靴工の息子であったルイ・フィリップは、そう言っていながら、何となく慰められる言葉だとつけ加えずにはおられなかったのは何故だろう。実は、その苦悩を愛すという言葉の背後にはキリストが立っているからである。キリストにおいてはじめてその言葉は、この世のなかに生きる現実性をもつことが出来るのである。」


僕のニヒリズムにも、椎名と同様に、その不可解な、ドストエフスキー「悪霊」の椎名の解釈が響いたのである。
そこに、文学から、キリストを信じる根拠ができたのだ。

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