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【世界史:3】周王朝

これだけ!ワンポイントアドバイス!

・殷王朝の統治=神の力(神権政治)
周王朝の統治=人の力(血縁政治)

前回お話しした中国最古の殷王朝は、

占いなど神の力で吉凶を占い民を統治しました。https://note.com/1313naitoon/n/n80a37d1e944e

しかし、殷王朝の紂王牧野の戦いで周の武王に敗れると、

武王が前1027年にを建国しました。

殷が神の力を使って統治していたのに対して、周は何の力を使って統治したのでしょうか?

ちなみに周の時代の後半に春秋戦国時代というのが始まります。

その時代の一番有名な人物「孔子」は殷を嫌い、周を絶賛しました。

孔子の思想は「礼」(礼儀)と「仁」(愛)です。これは人間に対して行うものです。つまり、おばけや神などの霊的なものを嫌っていたのです。

その孔子が殷を嫌い、周を絶賛したのは、殷が霊的で、周が人間的だったからです。

周は人間の力(血縁の力)によって民を統治しました。

まず初めに

「宗法」を規定しました。

これは同じ血族集団(宗族)の団結強化のためにつくられました。

そして、この宗法によって

「封建制度」を固めました

封建制度とは、簡単に言えば上下関係のことです。

一番上にがいます。その下に諸侯がいて、さらにその下に卿・大夫・士という身分があります。

下の者は上の者に対して忠誠を誓い、忠誠を約束された上のものは下の者に土地を与えます

王から諸侯に与える土地を「封土」といい、邑(都市国家)くらいの大きさがあります。

諸侯から卿・大夫・士に与える土地を「采邑(さいゆう)」といい、邑よりは小さいため小邑といいます

このような上下関係は必ずいつか崩れるのですが周は最後までこれが保たれました。

その理由がまさに「血縁」「宗法」です。

血の力、人間関係の強さによってかなり安定した封建制度が保たれました。

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ちなみに周の都は鎬京においていましたが、犬戎(とりあえず外敵とでも覚えておきましょう)が入ってくると、避難のために都を洛邑に移しました。

鎬京に比べて洛邑は東にあります。そのため鎬京から洛邑へ遷都することを「東遷」といい、東遷する前の鎬京に都をおいていた時の周を「西周」、洛邑へ東遷してからを、「東周」といいます。

東遷の年号は覚えましょう。前770年です。

ちなみに、東遷後の「東周」の時代からのことを「春秋戦国時代」といいます。

いよいよ次は「春秋戦国時代」のお話です。

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